だいぶ久しぶりだけど、お気に入り本棚の11冊目。
北岡正三郎「物語 食の文化 美味い話、味の知識」(中公新書)
著者は農学博士とのこと。
歴史のなかの食べ物の話が、幅広く、しかも系統だてて「物語」のように書かれていて、大変楽しい。
平安時代、夏の暑気払いに飯に冷水をかけて食べた。水飯(すいはん)という。その後飯に冷水をかける湯漬けが登場し、戦国時代に出陣する武将が湯漬けをかき込んで戦場へ向かった。茶漬けが現れるのは江戸時代で、最古の記録は元禄の頃である。煎茶は一八世紀中頃永谷宋円が開発したもので、高価で贅沢品であった。煎茶の茶漬けはご馳走で、客の接待にも用いられた。庶民の茶漬けは番茶の茶漬けであった。現代のご馳走茶漬けは温かい飯にウナギの蒲焼き、マグロの刺身、ブリの照り焼き、エビの天ぷらなどを載せ、香り高い熱い茶を注ぐ。
「物語 食の文化」p18
平安時代の「水飯」が気になったので、古事類苑データベースで探してみたら、一例見つかった。
北山抄 三 拾遺雜抄 摂関大臣正月大饗
故實、新任饗、隨時節寒暖設湯漬水飯等、不必仰録事云々、
「北山抄」は、平安時代中期に成立した私撰の儀式書。藤原公任の撰だという(Wikipediaより)。
なにしろ漢文なので、ざっくりとしか意味を取ることができないのだけど、「摂関大臣正月大饗」というところにある記事なので、摂関家が正月に開催した「大饗」についての記事なのだろう。
「新任饗」は、新しく大臣に任じられたときに開かれる大饗のことだろうか。
「隨時節寒暖設湯漬水飯等」は、暖かい季節には「水飯」を、寒い季節には「湯漬」を供したということか。摂関家の宴会の担当者は、この本を参照しながら、「水飯」や「湯漬」を出すべきかどうかを判断したのかもしれない。
「茶漬け」の例は、「おきく物語」のものが印象的だったので引用してみる。
此茂左衞門、藤堂家へ出ける子細は、前に與右衞門といひて、淺井家のあしがるにてありし、その小がしらは、茂助にて有しかば、ことのほか其みぎり、高虎貧にありし、間には朝のものをもたべざる事ありしに、茂助妻ことのほか不便がりて、茶づけなどたび〳〵ふるまひける、夫ゆゑ後までも茂助妻の恩をば、わすれぬとたか虎申され候よし
「おきく物語」
浅井家というのは、信長に滅ぼされた浅井長政の家だろうか。
そこの足軽だった茂左衞門という人物の妻が、貧乏で腹ペコだった藤堂高虎を不憫に思って、茶漬けをたびたびふるまったのだという。
藤堂高虎は、歴史音痴の私でも名前だけは知っているほど有名な人だけど(名前かっこいいし)、若いころは足軽の家でお茶漬けをご馳走になるほど貧乏だったらしい。
「物語 食の文化」では、「茶漬けが現れるのは江戸時代」と書いてあったけど、「おきく物語」の記事が正確であるのなら、天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井家が滅びる以前に、「茶漬け」は存在していたことになる。
ただ、「おきく物語」は大阪夏の陣を現場大阪城で体験した「おきく」という女性の孫が、祖母の回想を書きとったものなので、成立したのは江戸期に入ってからということになる。さらにこの本が刊行されたのは、天保八年(1837年)なので、後の時代の人の手が入って言葉が変わった可能性もある。
でも、関ケ原の戦いで石田三成や大谷刑部と戦い、大阪の陣でも家康側で大活躍した藤堂高虎が、足軽の家で茶漬けをふるまってもらっておいしそうに食べている姿を想像すると、ちょっとほっこりするし、「水飯」や「湯漬」じゃなくて、庶民の食卓ではちょっと贅沢な茶漬けだったからこそ、高虎が恩義を感じて召し抱えるに至ったのだと考えるのも楽しい。
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