今日の健康観察日記
ダメだった。
朝目が覚めた時点で、すでにグダグダ。
頭が動かない。
いや、頭が身体を動かそうとしないと言うべきか。
関節は錆びついたみたいにギシギシ。(あ、痛みはそうでもなかった)
何年も前、北のほうに暮らしてたころ、雪が降って車がスタッドレスタイヤでも坂を登らなかったから、仕方なく自力でジャッキ上げしてチェーン巻いて、なんとか家に帰り着いたことがあった。
あの感じだ。
とんでもなく頑張らないと、普通に動けないしんどさ。
鬱の揺り戻しか。
気長に回復待つしかないか。
それでも勉強だけはできた。
まあ座って本読むだけだし。
脳
脳が、いろんな機能のモジュール集合体だというような話は、息子の重度の知的障害がわかった頃に、脳研究に関するいろいろな本を読んで、漠然と知った。
四歳になっても息子は言葉をほとんど話さなかったし、理解しなかったのだけど、それは脳内のどんな事情で起きている現象なのか、どうしても知りたくて、毎日毎日考えていた。
なんで、たいていの人間は言葉が使えるのか。
どうして息子は言葉を習得しないのか。
目も見える。耳も聞こえる。運動機能も問題ないように見える(病院で検査した)。体験したことを記憶する力もある。なのに、話さない。理解しない。
幼児期の息子は、耳で聞いた音声言語をなかなか記憶できなかったようだった。あるいは、聞き取って記憶したかもしれない音声を、自分の発声器官を使って再現することができなかった。
ものすごくたくさん、長い時間練習をして、五十音の一音を聞き取って、すぐにまねして発音できるようになったのは、小学校に上がる前ぐらいだったか、もう少し早かったか。
ところが、ひらがなを読むことは、聴き取り・発音よりもずっと早く習得した。書くことを覚えるのは、本当に大変だったけど、ひらがなが書けるようになると、少しずつ、言葉を記憶するようになってきた。
けれども、覚える言葉は動詞ばかり。
立つ、座る、食べるなど、生活のなかで頻繁に行われる自分の動作を表す動詞は、特別な練習の必要もなく覚えることができた。
なのに物の名前を覚えるということが、息子にはとんでもなく難しかった。何年にもわたって、一つの単語について何百回、何千回と教えても、ごく身近なものの名前を記憶することができなかった。
ところが、ひらがなの読み書きが上達し、絵カードに添えた文字(絵に描かれているものの名前)を読み上げて、書き取れるようになったところで、急に息子は名詞を記憶するようになった。
物(具体物の視覚情報)、ひらがな(記号)、それによって示される音声、さらに、ひらがなを書き取るという動作。これらの刺激がセットになって、脳にもたらされたとき、息子ははじめて、言葉を「使える」ものとして、自分のものにしはじめた。
ものの名前を覚えはじめたころの息子は、よく、聞き取った言葉を空気中にひらがなで書いていた。空書とも呼ばれる、その様子を見ていて、息子の脳は、「書く」動作そのものを記憶しなければ、ものの名前の記憶を維持できないのではないかと想像した。
自分の体の動きを表す動詞を先に覚えていったのも、動きと音声とがセットになった言葉だったからなのかもしれない。
脳の専門家ならば、息子の脳がどのようにしてものの名前を覚え、それらを言葉として使えるようになったのか、きちんと説明できるのかもしれない。
私に分かることは、息子の覚えた「名詞」には、それを表す文字列の記憶と、自分の手で文字列を書く動作の記憶、読み上げられた音声の記憶、そして具体物の情報の全てが、緊密に結び付けられているということである。
このことを実現するために、息子の脳は独自のモジュールを構築して、素早く運用できるように訓練を積んだのだと思う。IQ20の息子にとって(昨年末に障害年金取得のために病院で検査してもらって出た知能指数がそれだった)、それはどんなに大変な冒険だったことだろうか。
息子の脳は、すごい。
息子はこんな大変な試練を受けても、鬱になんぞならなかった。強い脳の持ち主だ。
ずっと息子に付き合ってきた私の脳は、息子の脳ほどの強度はなかったのだろう。
あるいは使い方を間違えたか。
鬱から立ち直るためのモジュールの仕様書、どこかにないものか。
あ、自分で見つけないとダメか。
息子も自分で見つけたのだし。