湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

朝日新聞の「声」欄の障害児の話

朝日新聞の「声」欄には、障害児の親の投書がわりとよく掲載される。今朝もこんな文章があった。

 

ダウン症の娘
普通に生きる

 我が家の小学4年生の娘はダウン症で、現在普通学級に通学しています。1年生の時のことですが、悲しい思い出があります。
 休み時間に娘がトイレに行こうとすると、担任の先生は必ずみんなの前で娘のパンツを脱がせてから向かわせるのです。スカートは履いていますが、小学生が人前でパンツを脱がされるのはどうかんがえてもおかしい。おもらしでもすると思ったようですが、娘は幼稚園でも自分でトイレをちゃんとやっていました。
 先生に抗議すると、「どうせ障害児だから、恥かしいという感情はないでしょう」との一言でした。知的障害児だというだけで、人間としての感情があるわけがないという決めつけに激しい怒りを感じました。ほかの児童が同じ意識を身につけてしまうことも恐れました。
 知的障害者への偏見をなくし、娘にとって住みやすい社会をつくるためにも、普通学級に通わせるつもりでいます。明るく元気で実に人間らしい娘の姿を、多くの人にじかに見てもらうことが、偏見をなくす一番の近道だと信じています。娘と励まし合い、これからも普通の社会で普通に生活していきます。

 

投書されたかたは埼玉県の36歳の主婦で、名前は仮名になっていた。

 

息子はダウン症ではないけれど、私も知的障害児の親として、ここに書かれているような事態には、とても強く腹がたつ。そして、この短い文章には書かれていない、多くの事情や後日談を、息子の未来の姿に重ね合わせてリアルに想像してしまい、胸がとても苦しくなる。

 

まずこの人が、この娘さんがパンツを人前で脱がされる事件から、三年もたってから仮名で声を上げていることが、とても痛ましく思えてならない。たぶんいままで、この件に関しては、学校側とは意志の疎通がとれていないのだと思う。事件直後に先生に抗議したとあるけれど、「どうせ障害児だから、恥かしいという感情はないでしょう」との一言でした、というのだから、まるで相手にしてもらえなかったのに違いない。母親であるこの主婦の投書者もそれ以上の抗議もできず、娘さんはおそらく1年生のあいだずっと、クラスメートの目の前でパンツを脱がされつづけていたのだ。

 

こういう場合、母親が学校側に抗議しつづけるのは、とてもつらいことだと思う。

この投書のかたの事情は詳しく分からないけれど、「普通学級に通わせる」ことを敢えて選択しているというニュアンスが文面にあるから、ダウン症の娘さんを普通学級に入れるにあたって、学校側とさまざまな相談やかけひきや、約束事や念押しなどがあったことは、想像に難くない。

 

また、クラスの児童の保護者全員が、我が子のクラスに知的障害児が入ることを快く受け入れたとは到底思えない。担任の先生の方針に逆らうことで、娘さんの立場がいっそう不利な方向に追いやられるという懸念も、きっとあったに違いない。そうでなければ、人前でパンツを脱がされ続けている娘のために、どうして親が三年も声をあげずにいられるだろう。普通学級に通いつづけるという選択をまっとうするために、この親子は、パンツについては涙を飲むしかなかったのだ。気が遠くなるほど馬鹿げて残酷な話であるが、こんなことは障害児のまわりでは、たぶんこれまでいくらでも起こっているのである。

 

私は普通学級への通学にはほとんどなんのこだわりもないし、そもそも学校に通うこと自体、それほど大切なことだと思っていない。だから、息子を何がなんでも普通学級に入れてほしいとは思わない。学校じゃなくても子供の教育はできるからである。馬鹿者に子供を預けて人生をダメにするようなことは、親の存在にかけて、あってはならないと思っている。

 

けれどももし、上の投書の親御さんの立場に私が置かれるとするなら、たぶん即座に学年主任と校長と教育委員会と市長とPTAの偉い人に(それも変態スキャンダルにアレルギーの強そうな人を特別に選んで)ガンガン電話し手紙を書き、可能な限り騒ぎを大きくするのではないかと思う。騒いだ結果、他人事もしくは弱者のあがきとして黙殺されるか、それとも担任が何らかの形で制裁や処分を受ける結果になるのかは分からない。けれども無言で耐えしのぶだけでは、我が子の立場が痛ましすぎる。

 

普通学級に通うことなんかよりもずっとずっと大切なことは、人生にはたくさんある。私はそれを守りたい。念のために書いておくが、ずっと大切なことというのは、パンツの中身を隠すことではなくて、人としての尊厳でしょう、やっぱり。とことんのところでそれを守りきれないまま、事勿れで事を通して「普通の社会」で「普通の生活」をしようとしても、きっと何か無理が生じるはずだと私は思う。

 

やっぱりケンカするしかないのか。
いろんな人に止められて、「うまくやりなさい」って言われるから、ものすごい努力で、日々我慢してるんだが。
早晩、胃に穴があくであろう。

 

ここの日記も、オープンになってもかまわない程度に、できるだけ大人しく「いい子」に書こうと思っていたが、どうも私には無理のような予感がする。

 

それにしても、「普通の社会とか普通の生活とかって、なんなんだろうなあ」という問いを、子供のころからずっと持ちつづけて今に至っているのだけれど、子供のころには思いもかけなかった境遇のなかで、ある種の答えがみつかることになりそうなのは、面白いというか、皮肉というか。人生そんなもんか。

 

クラスメートの少年たちの前で少女のパンツを脱がせる「普通の」教師を、教師不適格者と呼ぶ人が、この国にはほとんどいないというなら、私はこの国の「普通」なんてどうでもいい。「普通」であるより、できることなら人として多少なりともマトモでありたい。マトモの定義をどうするかについては、このさいちょっと逃げておくが。

 

投書の主婦の娘さんの生活をみて、一人でも多くの「普通の人」が、腹のなかの腸やウンチよりもグロテクスな偏見を捨ててくれればどんなにいいかと私も思う。

 

息子も、日々がんばって社会のなかで生きている。「普通」じゃなくたって、別にいいじゃん。

 

「普通の社会」では、たいていの素敵なことは、「普通」じゃないことなんだから。

 

(2001年6月21日)