たしか、体調悪化中に、寝たままで細々と書くためのブログとして、ここを開設したはずだった。
細々とでもいいから、暮らしのあれこれや、考えたことの記録を残して、気持ちの支えにしよう、みたいなつもりのはずだった。
実際、いまも一日の大半、横になって過ごしている。具合のよくない日も多い。薬に頼って、家族に助けられながら、ヨレヨレだけどなんとかやっている日々だ。
そういう状況で、一ヶ月足らずの間にブログ更新76回って、なんなのかと。
どこが細々なのか。
数だけ見たら、絶好調ではないか。
いや、寝込んでるから、更新回数が増えてるというのは、あるかも。
なんだかこのブログ、樹木の「ひこばえ」みたいだなと、ふと思った。
遠い昔に読んだヘルマン・ヘッセの「車輪の下」だったと思うのだけど、伐採された樹木の切り株のまわりに、「ひこばえ」がたくさん伸びてきて、それはとても生命力に満ち溢れているように見えるけれども、結局は独立した一本の樹木には成り得ずに終わってしまうものだ、みたいなことが書かれていたと記憶している。
その「ひこばえ」は、主人公が破滅に至る手前で、一時的に活力をえた状態になったことを喩えるために持ち出されたのだったと思う。
その部分を読んだとき(ぜんぜん違う作品だったりして…しかし「車輪の下」をいまから読み返す根性などない)、まだ中学生くらいだった私は、
ひこばえをナメるな!
と、ひこばえのために、強く憤ったものだった。
そして、ヘッセという作家が嫌いになった。
(ほんとに、違う作品、作者だったらどうしよう。でも何十年もヘッセだと思ってきたから、もうヘッセでいいや)
ひこばえが栄えることだって、きっとある。
挿し木にされて生き延びる種類の木があるのだから、ひこばえとして伸びた枝が、何かの拍子に新天地を得て、もとの幹から独立した立派な樹木にならないとも限らない。
生きているものの可能性を、否定してかかるような思想は嫌いだ。ヘッセは自虐的に「ひこばえ」の喩えを持ち出したのかもしれないけど、それでも嫌いだ。
ふと思いついて、ウィキで「ひこばえ(蘖)」をしらべてみたら、面白いことが書いてあった。
森林伐採の後、切り株からの蘖によって新たな森林ができるようにすることを萌芽更新という。
「ひこばえ」、森林になるではないか。
ヘッセ(故人)には不心得を深く反省してもらいたい。
と、ここまで貶したからには、ヘッセの本、再読すべきか。
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違ってたらどうしよう。(⌒-⌒; )