「許されなかった子供は、許せない大人になる。」
そんな言葉が、どこかの国にあるそうだ。
重い知的障害のある我が子が恥ずかしい大人にならないようにと、一切の甘えを許さずに「訓練」しつづけた親御さんがいるという。その人の子は、魂の萎縮しきった大人になり、あらゆることをできなくなってしまったそうである。
生きることを許されていると信じることができなかったら、魂は消えていくしかない。
他でもない自分の命が、かけがえのない大切なものであると思うことができなければ、生きることは価値の無い闇でしかない。
「自分のしていることの価値がわからない」
そう言って、学業半ばで自殺してしまった知人がいる。
その人のお父さんは、自宅でも子供に敬語を使わせる厳しい人だったそうだ。亡くなったあと、人を介して、私が撮ったその方の写真を百枚、そのお父さんに贈った。お父さんは、じっと写真に見入っていたそうだ。
愛情がなかったわけではないのだろう。厳しいことも、子どもを思う気持ちからきていたものだったのかもしれない。
ただ、何ができなくても生きていていいと感じられるほどの許しを、我が子に与える機会を、永久に逃してしまったのかもしれない。
生きられなくする躾は、躾ではない。
そのことは、すべて、親の責として、親自身に返ってくる。
親として、自分はどうか
(2005年05月13日)
※過去日記を転載しています。