湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

映画「路上のソリスト」・尿

 
映画


数日前に、路上のソリストを見た。

 

 

路上のソリスト (字幕版)
 

 

 


序盤、けっこうしんどくて、一日では見終えることができず、二日がかりの鑑賞だった。


しんどかったのは自分の体調不良のせいもあるけど、主人公の一人である新聞記者ロペスの偽善や欺瞞、他人の不幸をネタとして記事に利用する新聞記者臭い貪欲さが、ものすごく鼻についたというのもあると思う。

 

しかもその他人、ナサニエル・エアーズは、希有な音楽の才能を持ち、名門の音楽院に在籍したこともある路上生活者で、精神病患者でもあった。

 

ロペスのコラムを愛読する中高年インテリ層に間違いなくウケると分かった上で、ロペスはナサニアルを追い、取材を進めていく。

 

そのうちにロペスは、多くの読者たちが望むような形で、ナサニエルの人生に介入し、彼を路上生活と精神病から救おうとしはじめる。

 

そういうのって、いやらしいことこの上ないし、もう間違いなく最悪の形で失敗するだろうなと分かってしまう。分かった上で、その経過を見ているのは、映画とはいえ、精神的にしんどいのである。というわけで、初日は半分で挫折。


翌日も、なかなか視聴再開する気にならなかった。

 

そもそも病気を話を盛り上げるための小道具のように使った物語を、私は好きになれない。

 

その昔、宮本輝の「優駿」(腎不全の子ども)とか、「錦繡」(知的障害児…たぶんダウン症)でうんざりしたことがある。小説はすばらしいのかもしれない。実際、それらを読んで心打たれたと思う。でも、なにかこう、「とってつけたような不幸」の象徴として、病気や障害が使われているという印象がぬぐい去れないのだ。それはたぶん、私自身が腎臓病患児や知的障害児の親だっただからなのだろう、とは思う。

(というわけで、最近話題の「君の脾臓をたべたい」も、どうしても読む気にならない。)

 

公平な視点でないのは分かっている。でも、嫌いなものは嫌いなんだから仕方が無い。

でも、この映画は根性出して、残りの部分を視聴した。


映画の冒頭から、新聞記者ロペスは、どうしようもない人として登場していた。

 

人気コラムニストだけど、自転車ですっころんでズタボロになるような迂闊な人だし、庭の害獣対策で、コヨーテの尿(粉末を水で戻す)を取り寄せて、庭に設置しようとしていて、頭っからそれをかぶったりするような、不器用な人でもある。自分の尿検査でも、採尿に失敗して尿をかぶっていた。

 

さらに、別れた妻に、別居している息子に連絡を取るようにときつく言われたりもしている。情の薄いダメ親父なのだ。


どう考えても、この人が取材で挫折することは、映画の冒頭から織り込み済みなのだろうと思われた。それなら、挫折した後に、取材の対象とどう向き合うのか、見届けてもいいかもしれないと思えたのだ。


予想通り、ロペスはナサニエルの人生への介入に失敗し、彼を激しく怒らせてしまう。音楽をこよなく愛する温厚なナサニアルに、殺す、はらわたを引きずり出すとまで言わせ、暴力まで振るわせてしまったロペスは、否応なしに自分のあり方を正面から見つめ直す時を迎えることになる。

 

家族を守らなかった自分。
熱心に取材対象を追いかける日々の中で、ほんとうに心から何かを愛したり、思いやったりすることから逃げ続けていた弱さ。

 

何かを愛したり慕ったりすれば、裏切られたときに傷つくリスクを負うことにもなる。そのリスクから、ロペスはとことん逃げ続けていたのである。

 

欺瞞や逃避をやめて、改めてナサニエルというたぐいまれな「友人」と向き合ったとき、彼の人生を良い方向に変えてやろうというような傲慢な意識は、ロペスの中から消え去っていた。


よい映画だったと思う。

だけどロペスが尿をかぶりまくるシーンは、必要だったんだろうか。


病気や障害の出てくる物語ばかりのレビューを書いている別ブログにも、この映画のことを書いた。

 

ikirutakarabako.blogspot.jp

 

 

蛇足だが、コヨーテの尿はAmazonで通販できる。種類もいろいろ。結構高い。
日本で多くの需要があるのかどうかは知らない。

 

 

 

コヨーテ尿???16オンス。

コヨーテ尿???16オンス。

 

 

 

 

 

いろいろ日記

今日の健康観察日記

 

睡眠、まずまず。
関節、まずまず。

ただ、歩くと膝がちょっと痛む。
昨日、外出して、いつになくたくさん歩いたせいだろうう。
少しづつ、慣らしていかないと。

 


映画

「神様からひと言」という邦画を見た。

 

 

神様からひと言 [DVD]

神様からひと言 [DVD]

 

 

 

原作は、荻原浩の同名の小説。

 

社員は上司には決して逆らわず、たとえ社長が意図的に会社を潰そうとしていても、唯々諾々と従うことで目先の保身を最優先させる……という不文律のある会社に中途採用で入った社員が、自分の意見を言おうとしたために、本社から遠く離れた「お客様相談室」に左遷され、そこで出会った奇妙な同僚たちと一緒に、馬鹿社長から会社を守りぬくというお話。

 

神様らしき人物(セイン・カミュだったらしい)は出てくるけれど、その人から何かひと言あるわけではない。結局は、主人公と同僚たちのなかにある、真実を見極めてやるべきことから逃げない心が、会社を救う力になっていた。

 

それにしてもひどい会社だった。(´・ω・`)


映画だから誇張して表現するのかもしれないけど、家畜用の飼料をまぜて原価を安くしたカップ麺をわざわざ作って、それをマスコミに自らたれ込んで株価を下げて、知り合いに乗っ取らせようとする社長を、誰一人とめようとしないのだ。

 

会社というところで働いたことがないのでよくわからないけれど、ここまでひどいところは存在しないと思いたい。


思いたいけど、つい先日も、車がリコールだと連絡がきて部品交換に出かけたばかりだ。何度目だっけ、タカタのエアバッグ交換させられるの。(´・ω・`)


ニュースに疎くてよく知らなかったけど、ずいぶん人が亡くなっているのだった。
ぞっとする。

 

 

www.nikkan.co.jp

 


短歌というか和歌


ふと気づけば、短歌雑誌の投稿の締め切りが「明日の消印まで有効」だった。
あわててノートをめくって詠んであった短歌から選ぼうとしたけど、どれも、ひどかった。orz

 

推敲したり、詠みなおしたりして、なんとか許容できる歌をまとめて、書いて、投函。

いつも、こんな感じだ。
毎日ちゃんと時間をとればいいのに。へたくそな歌でも詠んでおけば、勉強になるし材料にもなるのに。
間際にならないと、ちっともできない。

 

落ち込んだときは、和歌を眺めるとちょっと元気が出たりする。

万葉集が好きだ。


Kindleの無料本(青空文庫由来のもの)のなかに、正岡子規の「万葉集を読む」という本があって、額田王の歌について書いてあるのを、ここに引いてみる。

 

 

万葉集を読む

万葉集を読む

 

 

 


冬ごもり春さりくれば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてぞしぬぶ 青きをばおきてぞなげく そこしうらめし 秋山吾は

 

正岡子規は、この歌について、身も蓋もないことを書いている。

 

「此歌、秋山を以て春山にまされると判断はすれど、其まされるとする理由は少しも分からず。吾は思ふ、天智天武両帝同じ思ひを額田王にかけ給きと聞けば、此歌も暗に春山を天智帝に比し秋山を天武帝に比し、此時いまだ志を得られざる天武帝をひそかになつかしく思ふ旨を言ひいでられたるには非るか。(明治33・7・3)

 

 

どうなんだろうか。


正岡子規は、額田王が、春山を天智天皇、秋山を天武天皇に見立てていると言っているけれど、それとは全く違う見立ての可能性はないだろうか。

 

たとえば、こんな具合に。

 

「鳴かざりし鳥」「咲かざりし花」=魅力的ではあるけれど額田王的には特に興味のない若い男たち(との新しい恋)

「黄葉」=シニアな天智帝(との因縁の愛人関係)
「青き(葉)」=まだ年若い天武帝(との危険な関係)


彼女は春山を「手に入らないもの」としてあっさり見限っているのに、秋山については、「黄葉」と「青き(葉)」を、それぞれ自在に手に取って、しのんだり嘆いたりしている。

 

恋心が一つところに定まらずに揺れ動いていて苦しいのに、そのややこしい状況を敢えて選んで「秋山吾は」と宣言しているのじゃなかろうか。

 


言葉


ところで上の額田王の歌の「冬ごもり春さりくれば」を、一般的な解釈では「冬が去って春がくれば」としているようだけれど、どうも納得がいかない。


「冬ごもり」で、どうして「冬が去って(過ぎて)」という解釈になるのか。
「こもる」といえば、閉じこもったり引きこもったり、隠れたりする意味が主であって、古語辞典を眺めても「過ぎる(去る)」というような意味は見当たらない。

 

「春さりくれば」も、よくわからない。
(ネットで見られる学研全訳)古語辞典には「さる(去る)」という動詞に「来る」の意味があるという語釈を載せているけれど、それだったら「さりくる」と、同じ意味の言葉をわざわざ重ねる意味が分からない。

 

「さりくる」という表現は、「春」のほかに、「夕」「夜」「秋」にも使われているようだ。季節や特定手の時間帯に限定的に使われるものらしいけれど、ネットで粗忽に調べた限りでは「朝」や「夏」は、「さりくる」事例が見つからない(索引とかでっかい辞書を引く根性がない…)。


という疑問を持ったので、そっちのほうの専門家に聞いてみようと思う。
返事が来たら、また後日の日記で。

 

 

 

朝の日記を今頃投稿

今朝の健康観察日記

 

膝の裏、肘の裏、肩甲骨の間などを、貼るカイロでせっせとあたためつづけている。

 

立ち上がるときの膝の痛みは半減。

目のかすみや痛みは、ほぼ全快。

手のこわばりと痛みは、さすがに根深いようで、改善が遅いけれども、朝の家事にはほとんど支障はなくなった。

 

あたためるって、ほんとにすごい。

 

 

アニメ

 

 

のシーズン1と2を、Amazonプライムビデオ(見放題)で全編見終わった。

 

 


「昭和元禄落語心中」アニメ第一期“与太郎放浪篇”ダイジェスト映像


TVアニメ「昭和元禄落語心中」PV① rakugo shinju animation PV1

 

 

原作コミックの大ファンなので、アニメを見るのはかなり勇気がいったけれども、近頃は見てがっかりするアニメが少ないようなので、思い切って視聴。とてもよかった。

 

シーズン1は、与太郎の出番が少なく、助六とみよ吉の死ぬところまでがメインになっていて、原作同様、つらかった。助六が最後に芝浜をやるところは、このあとすぐに死んでしまうのだと思うと、その不幸の度合いのすごさにめまいがしそうになる。

 

その真っ暗な不幸を救ってくれるのが、命を賭した芸の世界の象徴である死神であり、死後の世界、あの世だというのが、この作品のすごさだとも思う。シーズン2のエピソード10で八雲が他界し、エピソード11で、三途の川の手前の街で死んだ助六やみよ吉、焼け落ちた寄席と再会。人生の悔恨も苦しさも、すべてがほどけて、八雲は三途の川を渡っていく。

 

アニメではわりとあっさり描かれていたけれど、原作コミックでは、助六とみよ吉の亡霊が何度も八雲と小夏の前に現れて、彼らを苦しめつづけるので、あの世での再会(オチ)がなければ、どうしても苦いものが残っただろうし、八雲もまっすぐに極楽へは行けなかっただろうと思う。

 

こういう物語を見ると、人が死後の世界を求める理由が、なんとなく分かる気がする。

 

 

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

 

 

 

 

マンガ

 

小西明日翔の新作を読んで見た。

 

 

 

関西の極道の娘が、東京の極道の孫息子と付き合うことになり、東京の屋敷で同居することに。孫息子はかなりのイケメンで、しかも全く極道らしくない普通の高校生……に見えたのだけど、次第に薄気味悪い正体が見えてくる、というお話。

 

楽しいお話ではない。

孫息子の人間性の壊れっぷりは相当なもので、ヒロインは出会って早々、自分の腎臓を片方四百万で売り払うことになる。人間が屑肉のように扱われる裏社会では、本人も含めて、彼女の身体や命を大事に思うものがどこにもいない。そういうろくでもない経緯があっけらかんとした絵柄で描かれているので、一層気持ちが悪い。あんまり読みたくないけど、続きは気になる。

 

思えば前作「春の呪い」も、主要人物の孤独や家庭の異様さ、人間性の欠落っぷりが気になって、最後まで読んでしまったんだっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貼るカイロ療法。。

昨日と今朝の健康観察

 

貼るカイロでひたすら関節を温め続けている。

 

両膝の裏。

膝の裏側。

それから、腰の上あたり。

 

 

膝の裏をあっためると耳の奥があったかくなる現象は、まだ続いている。あたたまった血が耳付近をめぐるのだろうか。とても不思議だ。

 

 

温め続けていたら、立ち上がるときに、あまり膝が痛まなくなってきた。朝の寝起きの動作にも、「いてててててててて」の掛け声が不要になっている。何年も苦しんでいたのに、こんなに簡単に楽になるものなのか。

 

 

貼るカイロ代がちょっとかかるけと、病院や整骨院に火曜よりは安い。

 

 

肩甲骨の間にも貼りたい。そこの冷えが残ってるのを感じる。これ書いたら貼ってみよう。

 

 

映画

 

「セッション」という映画をみた。

 

 音楽学校でドラムを学んでいる青年が、才気走った鬼教師が率いるバンドのメンバーに抜擢されるけれど、教師の指導は苛烈を極め、執拗な人格攻撃や存在否定のシャワーを浴び続けて心が壊れてしまう学生も出てくる。教師の指導は、一時代にほんの一握り出現する、類まれな天才奏者の育成のみに焦点が絞られているのだった。

 

 

というわけで、全編を通してたいへん感じが悪い、音楽の楽しさなど全く感じられない映画であった。主人公の青年も、音楽的な高みを求めるあまり利己的になり、血まみれになるまで演奏する姿は妄執の成れの果てのようにも見える。

 

そこまでの苦痛と自己の存在を全否定するような危険で不幸な試練がなければ最高の演奏は生み出せないというのであれば、学校でそれを求めて学生の大多数を潰してしまうののはそもそも理不尽なのであって、もう世間のいたるところにある不幸な境遇に才能の育成を委ねてしまえばいいように思ってしまう。多くの天才の天才性は、学校ではないところで育まれているのだろうから。

 

天才は真っ当な学校では育たない。

天才を育成するような場は凡庸な才能の人を殺しかねない。

 

ということだけを言いたい映画ではないのだろうけど、そういうことばかりが目に付いた作品だった。

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとあたたかい午前中

 

今朝の健康観察日記

 

 

昨日の精神科外来で、睡眠導入剤を倍に増やしてもらった(といっても、まだ少量の範囲)。

おかげで大変寝付きがよく、中途覚醒もなく、ひさびさにしっかり眠れた(推定七時間)。

朝の関節の痛みは、通常の半分以下。

「いたたたたたた!」と言わずに起き上がれる幸せヾ(〃^∇^)ノ。


冷えなかったのも、よかったのかもしれない。

 


挫折した映画


Amazonプライムビデオで、見放題なっている「星に想いを」という映画を見始めたのだけど…

 

星に想いを (字幕版)

星に想いを (字幕版)

 

 


アインシュタインが、数学者の姪と自動車整備工の恋の橋渡しをするという、フィクション映画。

 

楽しいのだけど、最後まで見ることができなかった。


理由は、アインシュタインとその仲間たちが、整備工を物理学の天才に仕立て上げ、にせの研究発表をさせて、姪の気を引こうとするエピソードがあったから。

 

残念だけど、私には、学者が学問の場にペテンを持ち込むようなお話を、ほほえましいとは思えない。

 

整備工が、ほんとうに天才だったらよかったんだけど。

どうせフィクションなんだし、存在しない姪を作り上げたくらいなんだから、そういうお話にしてもいいのに。

 

 

家事記録


とりあえず、流しの洗い物を八割。
全部片づけたかったけど、息切れしたので、断念。

 

 

ゲーム

 

映画をよく見るようになったら、iPhoneのゲームがあまり出来なくなってしまった。

 

ずっと楽しんでいる、「ふにゃもらけ」、LINEゲームの「ポコポコ」、白猫プロジェクトスマホ版「どうぶつの森」などが、すっかりおろそかになっている。

 

唯一、毎日開いているのが「城とドラゴン」。

 


城とドラゴン(城ドラ)「森の女の子」PV篇(歌詞入り)

 

この歌にうたわれてるみたいに、ドラゴンたちがずっと待ってる気がして、ついつい、のぞいてしまうのだ。

 

弱くて、あんまり勝てないけど。(´・ω・`)