湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

(_ _).。o○

 

昨日は、なぜかお腹が痛かった。

いろんな予定の変更、調整があって、ストレスがかかったせいかもしれない。

 

 

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視力の衰えが結構深刻なので、車の運転のやめ時を本気で考えている。というのを、前にも書いたような気もするけど、思い出せないからまた書く。長くてあと三年か。

 

問題は、重い障害のある息子と出かけるときの移動方法なのだ。現状、通院などは、私の運転で出かける以外に方法がない。福祉タクシーは、車椅子やストレッチャーに乗っているような方を想定したものがほとんどで、重度の知的障害者が利用するという事例があるのかどうか、タクシー会社のホームページを見ているだけでは分からない。たぶん、ほとんどそういう事例はないだろう。そして、事前に予約が必要でもある。緊急にお願いしても、難しいこともあるだろう。

 

一般のタクシーは……

正直、使いたくない。

息子の小さい頃、理解のない運転手さんに何度か当たって、いろいろ心ないことを言われたり、最悪の時には説明するまもなく怒鳴られたということがあったから。そんな人ばかりではないとわかっていても、いちばんキツイ時期に受けた仕打ちは、なかなか忘れられないものだ。一時期はタクシーを見るのも嫌なほどだった。

 

 

でも、どうしようもないとなれば、タクシー会社に相談するしかないだろう。

 

 

なんてとこを、えんえんと考えるから、お腹が痛くなるんだろう、たぶん。

 

 

なるようになる。

怒鳴られたら……笑ってここで報告しよう。

 

 

 

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節約のためにAmazonの読み放題をやめたので(でもあれ、月額数百円で、毎月数万円分も読んでた気がする…)、無料漫画や小説の読めるアプリでいろいろ読んでいる。

 

ピッコマ、というサービスで連載されている、「外科医エリーゼ」という漫画が妙に面白いというか、私のツボだったので、1日に1話だけという縛りがキツくて、Kindle版で出ているなら買おうかしらなどと思ったのに、なんと未出版、ピッコマだけの連載だった。しかも原作小説は韓国語らしい。読めない(;_;)。

 

そんなわけで、ピッコマに、課金しそうになっているけど、たったいま、車の定期点検でバッテリー交換を宣告されたので、やっぱり我慢する。

 

 

(;_;)

 

 

 

 

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週末は、書き物の時間がなかなか取れない。

書きかけ、あるいは志向の途中で中断させられると、ストレスがひどい。それが嫌だから、中断しそうなときなには書き始めない。となると、家族がそろう休日は無理ということになる。

 

以前はここまで中断がつらくはなかった。

 

ただ、例えば食事中に集金や配達が来て離席すると、胃が気持ち悪くなったり、痛くなったり、食欲が消えるというようなことは、5年くらい前からあった気がする。そのずっと前から、食事をしながらテレビを見るのは苦手だった。

 

歳をとるにつれて、頭が不器用になってきているのか。

 

本を数冊まとめて読みながら調べ物しながら絵を描く、みたいなマルチタスクは平気で行けるのに。へんなの。

 

 

 

ことばと、息子

 

 人は本来、動いていたい動物ではないかと考えています。いろいろなものを見て聞いて思考し、進化しようとするのです。

 

東田直樹 「跳びはねる思考」 角川文庫

 

東田さんの言葉には、世の中の過剰な情報やよくわからない圧力に晒されつづけて疲弊して、いつのまにか滞ってしまっている思考を、そっと動かしてくれるような作用があると私は思う。

 

 


「自閉症のうた」出版記念講演会・質疑応答編 その1

 

 

ふるまいの様子だけを見ていると、うちの息子とかわらないほど重度に見える東田さんの、発語の姿は、何度見ても心が震える。

 

文字盤と、横に座っておられるお母様を支えとして、しぼりだすように語られる言葉は、私にとっては奇跡そのものである。

 

脳内にある種の障害を持っている人にとって、ことばは、話したり書いたりしようとする瞬間に、消え去って分からなくなってしまうものであるという。

 

息子も、単語、とくに「もののなまえ」としての名詞を覚えることが、ほんとうに難しかった。「りんご」が大好物なのに、何年もかけて、当時考えられる限りの方法を使って、何千回と教えても、「りんご」という単語を "覚えて、口に出す" ことができなかった。「りんご」というひらがなを読むことはできるのに、「りんご」の絵や実物を見て、「りんご」と言うことが、どうしてもできないのだ。

 

そんな状態が、小学校に入ってからも続いた。

 

けれども、ことばの意味が全く「わからない」わけではないのは、息子の日常の様子を見ていれば、明かだった。

 

希望の見えなかった発語、とくに単語習得の問題にブレイクスルーが訪れたのは、息子が9歳、小学四年の時だった。

 

 

表側にりんごの絵があり、裏側に「りんご」と書いてあるようなタイプの絵カードを用意する。

 

息子に、まず表側のりんごの絵を見せてから、裏がえして、「りんご」という文字列を見せ、それを写し書きさせる。そして、また表側のりんごの絵を見せる。

 

それを何度も何度もくり返すと、息子は、りんごの絵を見ただけで、「りんご」と書くことができるようになった。つまり、ものの名前を "覚えて、書く" ことができたのだ。

 

 

ただ、その進歩は、ほんとうに、ゆっくり、ゆっくりだった。

 

この方式で単語の習得ができると分かってから二年後の、息子が11歳半のころの学習の記録手元に残っているので、一部転載してみる。

 

 

2009年7月19日の療育手記


今日のお題は、「ねぎ」と「もやし」。
どちらも好物なのに、いまひとつ名称が定着しない。


それぞれの野菜の写真をプリントアウトし、裏側に平仮名で名称を書き付ける。

まず、写真を見せて、名前を答えられなかったら、裏の平仮名を見せて読ませ、紙片に書き取らせる。それをくり返す。

 

以前は、これを一単語につき八十回から数百回繰り返さないと、覚えなかった。


いまは、多くとも二十回ほどで記憶できるようになっている。


それでも、健常な子どもたちとは違って、一度記憶した単語の音が、時間がたつにつれて、「ずれていく」という現象がある。


何度も練習して「ねぎ」「もやし」と覚えても、しばらくたつと、「ねぎ」が「だき」に、「もやし」が「はやし」や「はやい」に変質してしまうのだ。


しかも都合の悪いことに、変質してしまった音のほうが、なぜか記憶の定着率が高いのである。


だから、音が崩れていく前に、何度も何度も練習しなおす必要がある。もぐらたたきゲームのようである。

 

このもぐらたたきを克服すると、その後は音のズレは生じなくなる。

 

たぶん記憶のシステムのどこかに、こういう問題を引き起こす異常があるのだろう。

それでも克服可能なのだから、厭わず練習すれば、未来は明るい。


……

 

2009年7月20日の療育手記


「もやし」の音が、ずれている。


最初のうちは、


 もやし  →  はやし、はやい、うどん


程度だったのに、昨日の夜、寝る直前になると、


 もやし  →  はやい、こんぺいとう、てんとうむし


なんてことになってしまっていた。


一体、どういう連想関係になっているのか、さっぱり分からない。


今朝になって、なんとか「はやし」に戻っていたが、その後もぐらぐら揺れ動いている。今後の変遷から目が離せない。

 

 

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長男と一緒に、こんなレッスンを毎日続けていたころ、末っ子はまだ幼稚園の年少組、長女は持病で入院という状態だった。昼間は息子と末っ子を車に乗せて療育に通い、自宅でも言葉のレッスンをやり、夜は長女の病院に車をかっ飛ばしていた。

 

あのころの私は、ある種のスーパーマンだったかもしれない。

 

それはともかく、上のような練習の甲斐があって、息子は、日常的に目にふれる物の名前の多くを "覚える" ことはできた。とくに食品関係、自分の好物については、自発的に発語することが出来るようになっている。

 

ただ、そこまでだった。

 

さまざまな具体物、物の名前の上位概念、たとえば「動物」「おやつ」「飲み物」といった単語は、いまでも習得することが難しい。

 

また、形のないもの、状況、気持ち、といったものを表現する単語も、息子にとっては、つかみどころのないものであるようで、音声や文字列としての知識はあるのだろうけれど、まず口に出して使うことがない。

 

この壁を乗り越える方法を、私はまだ見つけていない

 

息子は、今年で二十三歳になる。

 

 

黙して語らぬ息子の表情を日々眺めていて、なにか計り知れない思考や、豊かな情緒の片鱗があるらしく思えるのは、決して気のせいではないと思える。

 

それは、東田直樹さんのような、明晰で論理的に言語化できるような思考ではないかもしれない。

 

けれども、なんらかの方法で、息子が思いを表出できる日がこないとも限らない。

 

それを、私は待っている。

 

 

 

きっと暑さのせいだと思う…


二日連続で、やってしまった。

昨日と今日、末っ子は中間試験なのでお弁当が必要なかった。
なのに、昨日も今日も、朝起きて、ほとんどオートでお弁当を作ってしまった。


「きのう、あれほど言ったじゃん!」


と、末っ子に心の底からあきれられたけど、自分でも本気であきれた。

 

お弁当は、昨日も今日も、長女が持って出勤した。

 

(T_T)

 

 

 

Twitterで、スマイリーキクチという方のツイートを見た。

 

 

 


テレビを見る時間が年に四時間ほどしかないため、芸能関係の知識がほとんどない。

だから、スマイリーキクチ氏のことも、ついさっきまで、お名前もお顔も知らなかった。

 

で、ウィキを見てみて、驚いた。

 

 

ja.wikipedia.org


とてつもない被害だ。

 

こんなものを有名税などといっていたら、名の知られる仕事をしている人たちは、まともに暮らしていけないだろう。

 
犯罪者と目される人に向かってネットで「暴言」を吐いている人の多くは、それが「社会悪」であると気づいていない人も少なくないと思う。


強烈な他罰感情と、世の中への怒り。

匿名での「正義の攻撃」に依存してしまう感情の裏にある、個人的な苦しみ。

 

 

そこをなんとかしないと、こういうのは、どうにもならないのじゃないかという気がする。

 

 

( _ _ ).。o○

 

こうしてブログなど書いて楽しんでいるけれども、インターネット全体に対する気持ちの悪さ、嫌悪感は、昨年あたりから急激に増している。不特定多数の悪意のようなものを日常的に目に入れるのは、しんどい。避けていても、気になる情報を探して読んでいると、そういうものがどうしても目に入ってくる。

 

でも、思うように出歩くことの難しい私にとって、インターネットは、「どこでもドア」に等しいツールである。

 

悩ましいところではある。

 

 

 

 

 

報道…


川崎の通り魔の事件報道の続報を、少しだけネットで見ている。

たくさん見ると、体調を崩しかねないので、自分で制限をかけて。


テレビはもちろん見ない。同時多発テロのときに、ずっとあの報道を見ていたら、その一ヶ月後に命をおとしかけるほどの大病をした。原因は処方薬の副作用(メルカゾールの副作用である、無顆粒球症)だったけれど、テロ報道を見続けたストレスは遠因になったと、自分では感じている。

 

 

bunshun.jp

 

川崎・登戸の大量殺人犯は”池田小事件・宅間守”に似ている―—精神科医の分析
https://bunshun.jp/articles/-/12099


この記事のなかに、このような犯罪の要因が上げられていた。

 

(1)欲求不満

(2)他責的傾向

(3)破滅的な喪失

(4)外部からのきっかけ

(5)社会的、心理的な孤立

(6)武器の入手


(精神科医の片田珠美氏による)

 

 

この記事は、片山医師の次の言葉で結ばれている。


「通り魔的な大量殺人犯の動機は、自分を軽んじた社会への復讐です。その予備軍は、どこにでも潜んでいます」

 

現実に、"社会から軽んじられている"人が全員大量殺人犯になるわけではない。そんなことを言っていたら、パワハラ、セクハラ、貧困などの被害者、世の中の制約のために思うに任せない何らかの事情を抱えて苦しむ人は、皆こぞって人殺しにならなくてはならない。

 

そう分かっていても、これは、ぞっとする指摘である。


このような性格的資質を持ち、社会的、精神的に追い込まれそうな境遇にある人を、幼少期から孤立させないようなセイフティネットが存在しうるものかどうか。


わからない。
簡単ではないと思う。


せめて、このような凶行をはけ口にしなくてはならなくなる前に、気持ちの居場所を見つけられたらよかったのだろうか。

 

ひたすらな他責に向かわせる怒りや、膨張しつづけるしかなくなった憎悪を、多少なりとも薄めるような、曖昧な日陰、やわらかな薄闇のような居場所が。

 

 

 

ニュース

 

川崎の通り魔事件。

言葉がない。

 

 

どんなに怖かっただろう。痛かっただろう。

親御さんたちの苦しみ、悲しみは、計り知れない。

 

 

 

昼過ぎに、末っ子の学校から一斉メールが届いた。

学バスには先生方が手分けして同乗して、生徒たちを見守ってくださるという。

 

帰宅した末っ子に聞いたら、いつも厳しいことで知られている英語の先生が、さらなる鬼の形相で車外を睥睨しまくりながら乗車しておられたとのこと。ありがたかった。

 

 

けれども、今日のようなことに遭遇してしまったら、先生も犠牲になってしまいかねない。

 

 

なぜ、学バスが狙われたのか。

こんなことが二度と起きないために、一体何をすればいいというのか。

 

犯人も命を失ったというけれど、少しでも事実が明らかになることを願う。

 

そしてなによりも、怪我をされた方々、恐ろしい思いをしてしまった児童生徒、保護者の方々が、癒されますように。