こんにちは。
日曜日なので、教会学校に出かけた。
末っ子は友人たちと旅行に出ているので、私一人で参加したところ、いつも来ているご家族がみんなお休みだったため、大人ばかりの子ども礼拝になってしまった。
一番年下の私が61歳、牧師先生も日曜学校でお話ししてくださる先生も私よりずっと年上で、最年長の方は90代だったはず。推定平均年齢が80台かもしれないという、大変にレアな「子ども礼拝」になった。
今日は、マルコによる福音書の第14章に出てくる、ナルドの香油のお話だった。
重い皮膚病の人シモンの家で、ある女性がイエスに高価な香油を注ぐ。その場にいた人たちが、女性の無駄遣いに憤って責めたのを、イエスがたしなめる。
この女はできる限りの事ことをしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
マルコによる福音書 第14章 8節
ナルドの香油は、当時の人の一年分の年収に相当するほど高価なものだったという。
女性にとって、イエスは、それほどの金額を注ぎ込んでも惜しくないほど、全力で推せる存在だったのだろう。
マルコの福音書では、女性の名が明かされず、彼女の行動に憤った人の名前も書かれていないけれど、ヨハネの福音書では、女性はマリアであり、怒って騒いだのはユダであると書かれている。
このあとユダは、イエスを祭司長たちに売り渡すべく行動を開始する。ユダの裏切りの理由は、新訳聖書では「もともと金に汚かった(会計をちょろまかしていた)」「悪魔が中に入ったせい」という感じで説明されているけれど、案外、この香油の件で、自分はイエスとは相容れないと明確に分かってしまったからではないかという気がする。
現世での政治権力にも財産にも執着せず、まもなく訪れる死に抗うこともしない指導者を、マリアのように人生賭けて推すことはできないと、悟ったのではなかろうか。
推しを裏切って殺すという形で推し活を辞めたユダは、イエスを売った金で土地を買ったあと、なぜかその土地に墜落死した(使徒言行録)とか、貰った金を神殿に放り込んで首吊り自殺した(マタイによる福音書)とか言われている。
なんとなく、三日天下の明智光秀を思い出す。
安土城で家康をもてなすように命じられた光秀は、もてなしに不備があったとして信長にきつく叱責され、その直後に裏切って本能寺の変を起こしたものの、天下人になることなくあっけなく死んでしまう。
人生賭けた推しを殺す代償は、自分の死であるらしい…
などと、まとめていい話ではないだろうけど、そういうところまで追い込まれる前に、できることはあっただろうに、とは思う。ユダも光秀も。