湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

介護メモ(4月20日〜23日)

 

4月20日(月)

 

疲れが重くて、午前中はほとんど何もできなかった。

 

疲れだけではなく、全身の筋肉の衰えを感じる。

椅子から立ち上がるのが、妙につらいのだ。背もたれなどを支えにしないと、立ち上がれそうにない時すらある。

 

朝、布団から起き上がって立ち上がる動作も、かなり厳しい。自宅ではベッドだから、足を床に下ろして、両腕で体を支えてスムーズに立ち上がれるのだけど、畳に敷いた布団では、周囲に支えがなにもない。うかつに立ち上がろうとすると、前方向に転倒しそうになるので、両手両足の位置取りを、慎重に確認しながら立つようにしている。

 

なんでこんなにダメになっているのだろう。

実家に来てから、家事の量は増えているし、一日の歩数もかなり増えているのに。

 

実家での家事と歩行では維持できない部位の筋肉が、ピンポイントで衰えているということか。

 

AIに対策を相談したり、ネット検索で調べたらして、とりあえず簡単なエクササイズを取り入れることにした。

 

椅子に浅く腰掛けた状態から、ゆっくり立ち上がり、また座る。

 

この動作10をワンセットとして、朝昼晩に3セット。

 

やってみて分かった。

まずいレベルで筋力が落ちている。

 

なにしろ続けて10回、立ったり座ったりできなくなっているのだ。

 

膝が痛いせいもあるけど、6回ほどで、動悸がひどくなって辛く止まってしまう。

 

座る姿勢や、立ち上がる時の力の入れ方などを工夫すると、なんとか10回続くけど、相当きつい。

 

「廃用症候群」という、父の診断名を、いやでも思い出してしまう。鍛えないと、父よりもずっと早く、同じことになってしまう。

 

毎日やろう。3セットなどと言わず、できるだけ多く。

 

これサボったら、私の晩年に明るい未来はない。

 

(_ _).。o○

 

 

午後3時過ぎ、まず母の入院先へ、タクシーで行った。

 

今日が主治医との面談の日だと思い込んでいたのだけど、受付で確認すると、母との面会も主治医の面談も一週間後の月曜午後となっていた。

 

病院から電話連絡が来たときに書いたメモを確認したら、確かに「4月27日 主治医と面談、リハビリ見学」とある。でも、電話での会話で、病院のスタッフの人と、口頭で散々確認し合った記憶もあるのだ。

 

「わかりました。来週月曜日の午後、ですね」

「そうです。再来週月曜はお母様との面会ですね」

「はい、そのはずです」

 

どう考えても、母との面会と主治医面談を別日と認識していたのに、メモにはちゃんと両方とも「4月27日」と書いているのが、いっそ不思議でならない。

 

疲れすぎているのかも。

病院スタッフも、私も…😰

 

(_ _).。o○

 

母の病院近くのバス停から、父の病院へ向かった。

 

父は眠っていたけれど、声をかけたら薄く目を開けてくれたので、あれこれと話しかけていると、父の担当の言語聴覚士さんが来て、リハビリ計画の説明をしてくれた。

 

現状では、父は一日のほとんどを、ほぼ眠ったような状態で過ごしているという。

 

そこで、できるだけ長い時間、起きた状態を維持することを目指しつつ、嚥下の練習を少しずつしているという。

 

そうした説明のあと、

 

「ご家族として、どこまでのご回復を望みますか」

 

と聞かれたのだけど、私には次のように答えることしかできなかった。

 

「できることなら、倒れる前のようになって欲しいとは思いますけれども、いまの父にどこまでの回復が可能なのか、把握していませんし、なによりも父本人の希望や意欲も、会話が不自由な現状では確認できません。それに今後のことに関わるのであれば、私だけでなく、入院中の母の意見も聞いてみないといけないと思います」

 

言語聴覚士さんが頷いてくれたので、とりあえずの目標を安全な嚥下と定めたリハビリ計画書にサインをして、今日の父のリハビリが始まった。

 

言語聴覚士さんは、電動ベッドを操作して父の上体を起こすと、ピーチ味のゼリーをひと匙掬って、父の口元に持って行った。父は嫌そうな表情をしたれけど、「練習だからね」と言われて口をあけ、なんとか飲み込んでくれた。

 

それから、掠れ声で何度か声を出そうとするのだけど、言葉として聞き取れないので、口の動きを注視していると、どうやら、

 

「うまくない」 

 

と言いたいようだった。

 

「美味しくなかった?」

 

と聞くと、父はかすかに頷いた。

 

倒れる前まで、父は、私が買ってきた桃のゼリーを「これ、うまいな」と言って食べてくれていた。

 

けれども、体調が悪くなるにつれて、味覚障害的なものが徐々に出始めていたことも分かっていた。

 

宅食サービスのお弁当も、最初のころは、どのおかずも「うまいな」と言っていたのに、倒れる数日前には、「どれも同じ味に感じる。うまくない」と言って、私が作る雑炊ばかり食べるようになっていた。

 

言語聴覚士さんに、味覚障害のことを伝えたら、ゼリーをやめて、とろみをつけた水での練習に切り替えてくれた。

 

3匙ほどで、父がむせだしたので、リハビリ終了。

 

安全のために30分ほどは上体を起こしたまま過ごす、ということだったので、ベッドの足下に座らせてもらって、父が眠くなるまで付き合うつもりで、いろいろと話しかけていた。

 

入院リハビリ中の母の状況などを語っていると、父が、かすかに唸りながら口を動かすので、読み取ると、

 

「ここは、あおもりか?」

 

と言っているようだった。

 

青森は両親の生まれ故郷だ。

 

父はもう10年以上、青森には帰っていない。父の母(私の祖母)が亡くなったのが、2009年だから、多分その時が最後だろう。

 

(ちなみに祖母は百歳で亡くなったのだけど、お葬式のとき、青森は「太宰治生誕百年」というので、大いに盛り上がっていたと、従兄弟に聞いた。太宰治も心中などに巻き込まれず、ちゃんと養生していれば、平成の世の中を見られたかもしれない。)

 

話を戻す。

 

父がなぜ、自分が青森にいると思ったのかは、分からないけれど、私としっかり視線を合わせて答えを待つ父に、認知症的な混乱の様子がない。これはもしかすると、過去の人々と「会った」のかなと思われた。亡くなった祖父や、祖母、兄弟たち…

 

「何か、夢を見たの?」

 

と聞いても、父はゆっくりと首を横にふる。

 

父の身に起きたそれは、現実としか思えないような邂逅だったのかも知れない。

 

一呼吸置いてから、父に現実を伝えた。

 

「ここは、S市だよ。M県S市。いま入院してるのは、K町にある○○病院。最初はT病院に救急車で入院して、そのあとまた救急車で転院してきたんだよ」

 

父は、私の言葉を飲み込むように聞いてから、小さく頷いた。分かってくれたようだったけれど、父の目は、遠ざかる何かを追うかのように、宙をさまよっている。

 

もう少し、リアルな話をしなくてはと思い、入院中の母の話題を出すと、「入院」という部分に父が酷く驚くので、三月半ばの母の転倒と骨折の話をすると、少しずつ思い出してきたようだった。

 

その後は、取り止めもなく日常的になことを話し続けたけれど、父が明らかに反応したのは、熊の出没についてだった。

 

「マンションの庭に座ってたらしいよ。ここの病院からも結構近いとこだったみたい」

 

父が表情を変えるほど反応してくれたのが嬉しくて、ニュースで聞いた話をいろいろと伝えていると、父が私のことを何度も指差しして、何か言おうとする。多分帰り道で熊に出会うのを心配してくれているのだろうと思い、バッグにつけていた熊鈴を見せながら、

 

「バスで帰るし、明るいうちに家に着くから、大丈夫だよ」

 

と言ったら、少し安心してくれたようだった。

 

熊鈴の効果については、正直なところ私は半信半疑だったのだけど、コンビニやスーパーでも普通に会っているくらいだから、地元では厚い信頼を得ているのかもしれない。

 

熊の話に区切りがつくと、父が少しうとうとし始めたので、また明日来るよと声をかけて病室を出た。

 

病院近くのカフェに入って、軽めの夕食を取ってから、またバスに揺られて帰宅。

 

 

4月21日(火)

 

午前中は実家で掃除などをして過ごした。

 

疲れ気味なので大掛かりなことはやらず、床拭きや物の整頓程度。Amazonでポチった最新型クイックルワイパーが、大活躍だ。

 

 

 

午後2時半ごろに家を出て、バスで父の病院へ。

 

バス停は、実家から徒歩数分のところにある。そこから乗車して、病院近くのバス停までは、道が混んでいなければ、ほぼ40分ほどで着く。

 

途中、カーブが多いので、座席に座れないと膝がつらい。優先席に座ってもいい年齢だとは思うものの、明らかに年上の乗客が乗ってくることが多いから、気が引けて座りにくい。でも今膝を本格的にダメにするわけにはいかないから、できるだけ座るようにしている。

 

父は眠っていたようだったけど、声をかけたらすぐに薄目を開けて、何か話したそうに口を動かした。唇の動きを読むと、

 

「くま、は、どうした」

 

と言っている様子だったので、もう捕獲されて、怪我した人もいなかったみたいだと、ニュースの内容を伝えたら、ホッとした表情になった。昨日私が帰ってから、ずっと心配してくれていたのかもしれない。

 

今日は、青森の話は出なかった。

 

15分ほど父のそばにいて、あれこれと話してから、病室を出た。

 

本当は、もっと長くいるべきなのかもしれない。けれども、肺を病んでる父を、無駄に疲れさせたくもない。

 

前日同様、早めの夕食を取るために、病院近くの和食屋に入って、野菜多めのメニューを頼んでから、おもむろにスマホを見ると、着信が二件ある。文字起こしされた留守番電話の内容によると、実家の町内の方らしい。

 

父が倒れたあと、回ってきた回覧板に付箋を貼り、両親が入院してしまったことと、私の携帯番号を書いて隣家に回してある。電話の主は隣家の方ではなかったので、たぶん町内会長さんだろう。

 

思えば父は、町内会長さんの電話番号を探そうとしてクローゼットを調べていて、倒れたのだった。そのことを思うと、少しばかり胸の塞がる思いがしたけれど、もちろん町内会長さんに非があるわけではない。

 

気が重いものの、実家に戻ってから、着信していた番号に電話をかけると、だいぶ高齢な感じの女性が出た。

 

「あー、たったいま、出かけてしまったんですよ。私じゃ話がわからないし、出かけたといってもこんな時間だから、すぐに戻ると思うんですけど」

 

話が分からないと言いつつも、私の素性や事情等はしっかり把握しておられたようで、しばらくしたら掛け直すからと伝えると、申し訳なさそうにしていた。

 

電話を終えて少しすると、玄関チャイムが鳴るので、もしや町内会長さんの直撃かと思いながら出てみると、クロネコヤマトの人だった。母のための介護ズボンや、病床で被れる薄手の帽子などをAmazonに発注していたのが届いたのだ。

 

 

 

介護ズボンの包みを開けると、発送元の人からの直筆の手紙と、小さな折り鶴が一つ入っていた。

 

「介護する方、される方、皆様のご多幸をお祈りしております」

 

幸せな介護って、何だろう。

 

弱い私は、父の容態に心をぐらぐらと揺らされて、消耗し続けている。

 

観念的な意味での覚悟はできている、と自分では思っている。実際、倒れ込むようなこともなく、すべきことも、一応はできている。

 

けれども私には、長く生きてきてこれから死にゆこうとする人の、生から死へと心身を少しずつ移そうとしつつある、その定まった道行きの姿というものを、目の当たりにした経験がない。

 

私が知っている人の死は、唐突に遠方から知らせがくるものであったり、幼い子どもたちや、若い友人が、急な病気で身をもぎ取られるように失われていくものばかりだった。

 

父の姿を見ていると、自分自身も確実に死に向かって生きている、終わりに向かって歩んでいることを、否応無しに体感する。その体感に、感情がどうにも追いつかないから、うろうろと気持ちが定まらずに、無駄に消耗するのかもしれない。

 

どう父を見守り、見送ればいいのかが、私には分からないのだ。

 

還暦過ぎていても、私はまだまだ命というものがよく分からず、生き慣れてもいないらしい。

 

そうだとすれば、いまをしっかり体験して、覚えていくしかないだろう。生きるということと、終わるということを。

 

(_ _).。o○

 

町内会長さんのお宅に電話を掛け直すと、今度はご本人が出て、要件を伝えてくれた。

 

町内会費徴収の時期なのだけど、入院してしまった家からは、町内会費を取らない決まりになっているので、支払いの心配はしなくてもいい、とのことだった。

 

町内会費や清掃分担のことを、母がかなり気にしていたので、次の面会のときに伝えて安心してもらおう。

 

4月22日(水)

 

朝食はコーンフレークと牛乳で誤魔化した。あと、マルチビタミンのサプリ。

 

だいぶ体調がいいように感じたので、午前中、かなりガッツリ掃除した。

 

まず、ずっと気になっていた、二階の両親の寝室に掃除機をかけ、衣類などの整理をした。

 

それから、廊下に置いてある諸々の物品を移動させて、掃除機とクイックルワイパーで、溜まってる埃を可能なかぎり除去した。

 

実家の二階廊下は、かなり幅が広くなっていて、ちょっとしたサンルームのような使われ方をしている。元気な頃の父はウォーキングマシンを置いてトレーニングしていたし、母は窓辺に文机や書架を置き、ふかふかの座布団を敷いて、そこで読み書きをして過ごしていたようだ。

 

ただ、母も私と同じでADHDの傾向が強いので、物の整理整頓が全く得意ではない。掃除も好きではなかったと思う。

 

父はおそらくアスペルガー症候群で、私物の管理や置き場所については揺るぎなく管理記憶していたけれど、家の中全般の清掃整頓には、あまり頓着しない人だった。

 

私が子どものころ、年に数回、母が気負い込んで「勝負する!」と宣言し、いきなり大掃除を始めることがあった。それ以外の時は、清掃や整理整頓をしている姿を見た記憶がなく、家の中はほぼ常にカオスだった。高齢になって身体がしんどくなってからは、「勝負」の頻度はだいぶ下がっていたのだろうなと、片付けをしながら思った。

 

そんな母が、先月、私が末っ子を連れて帰省するというので、うっかり張り切って、無理に動いてしまったのだろう。入院後、

 

「思えば浮かれてたんだよねえ。るんるんしながらゴミ出して、くるっと振り向いたら、身体がついてこなくて転んじゃったよ」

 

と言っていた。もっと頻繁に、掃除しに帰省すべきだったと、今になって後悔しても遅すぎる。私は私で、体調を崩していたのだし。

 

掃除にはキリがないので、12時には切り上げて、何か食べようと思ったけれども、食欲が全くない。ゼリー飲料だけお腹に入れて、父の見舞いに行ったついでに外食することにした。

 

(_ _).。o○

 

2時半過ぎにバスにのり、3時半過ぎに父の病院に着いた。

 

父は寝ていたけれど、声をかけると目を開けて、私に気づいてくれた。

 

担当の看護師さんに会えたので、最近の父の様子を教えてもらった。

 

眠っている時間が長いものの、声を掛ければ覚醒するので、嚥下のリハビリだけでなく、ペースト状の食事も取り始めているという、とても嬉しい報告を聞くことができた。

 

介護保険の区分変更のための調査員が、直接父の病床に来たそうで、父は自分の名前と生年月日、母の名前などを、自力で答えていたという。

 

もしかしたら、父はこのまま少しずつ回復して、自宅に帰るのは難しくても、施設などに入所して、また母や私、孫たちと一緒に過ごす時を持てるかもしれない。そんな期待を持てる話だった。

 

父とも少し話すことができた。

母がリハビリを頑張っていること、家の掃除をしていることなどを伝えると、頷いてくれた。

 

帰り際に、また明日くるねと声をかけると、父は小さく手を振ってくれた。表情が少し寂しそうだったのが気がかりだったけれど、疲れたのかもしれないと思い、そのまま病室を辞した。

 

 

病院近くのサイゼリアで外食。

父の予後がよさそうに思えたからか、食欲が出たので、しっかり目に食べることができた。

 

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その後、バスで帰宅。満員で座席に座れず、実家近くまで立っていたからか、バスを降りるときに膝が痛くて難儀した。ふくらはぎなども、むくんでパンパンになっている。ケアしないとまずいなと思った。

 

夜は、Amazonで足用のマッサージ器具などを眺めたり、本を読んだりして過ごした。

 

 

4月23日(木)

 

膝の痛みはあるものの、体調は悪くないので。午前中は、また掃除を頑張った。

 

古い家だからか、毎日掃除していても、どこからともなく埃が床に落ちてくる。壁や天井に、はたきをかけるべきなのだろうけれど、はたきでは自分も埃を被ることになるので、外出前にはやりたくない。クイックルワイパーのシートで、壁の手の届くところを、少しずつ拭くことにした。

 

午後2時半過ぎに、またバスで父の病院へ。

 

眠っている父に声をかけても、今日は起きてくれなかった。聞こえてはいるようで、少し身じろぎをするのだけど、目が開かない。

 

何度か声をかけたものの、どうにも目覚めそうにないと思えたので、諦めて病室を出たところで、看護師さんに呼びとめられ、話があるからホールでしばらく待っていてほしいと言われた。

 

自販機で買った「京都レモネード」を飲みながら、10分ほど待っていると、看護師さんが来て、父が今日は一度も目覚めていないのだと教えてくれた。

 

「これから脳のCTを撮りますので、結果が出るまで待っていてくだされば、主治医から病状の説明ができると思いますが、このあとお時間有りますか?」

 

と聞かれたので、もちろんあると答え、その場で待つことにした。

 

30分ほど経ったところで看護師さんに呼ばれ、CTの画像を見ながら、主治医のお話を聞いた。

 

いまの病院に転院した日に、小脳に黒い影があり、梗塞が疑われるということは聞いていた。でもその梗塞が、いつ起きたものかは分からないとも言われていた。

 

今回の撮影では、小脳に出血らしい跡があり、それが続いているように見えているのだという。

 

小脳の出血や梗塞は、言語障害や身体の運動の困難を引き起こすことはあっても、昏睡の直接の原因とは考えられず、かといって、現状では原因を探すことも難しく、覚醒しなければ口からの投薬も難しいため、高血圧や糖尿病などの積極的な治療もできない、という。

 

「このまま、目を覚まさない可能性があります」

 

そう言われた。

 

昨日の別れ際に手を振ってくれた父の姿が思い起こされた。あの時、父が眠ってしまうまで側にいるべきだったという、深い後悔に襲われたけれども、いまは思いに沈んでいる場合ではない。

 

とにかく聞くべきことを聞いておかなくてはならないと、頭を無理矢理に動かした。

 

「ここに入院したときの治療計画で、二週間後に退院の見通しとお聞きしていますが、それについてはどうなりますか?」

 

「寝たきりで目覚めない状態ですと、点滴が必須ですから、施設などの入所は不可能なので、長期療養向けの病院をこれから探して、そちらとの話し合いで合意が得られれば、ということになります。詳しい話は、担当の看護師と相談してください」

 

「この後また、ふっと目覚める、ということは?」

 

「…なんとも言えないです」

 

分かりました、と言って主治医の前を辞し、もう一度眠っている父に声をかけてから、病院を出た。

 

(_ _).。o○

 

食欲などなかったけれども、こんな時に食べずにいるなどということはありえない。体力がなければ、何も乗り切れなくなるのだから。、

 

近くのマックに入って、アボカドバーガーのサラダセットなるものを注文した。

 

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意外に食べやすくて、完食できた。

 

帰りはタクシーに乗った。膝も温存しなくてはならない。

 

なんとかして、母を父の病床に連れていきたい。当面のミッションは、それだろう。

 

母の病院に早めに相談することにした。