湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ブロッホ「希望の原理」を読む(9)

前回の続きから。

 

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いかにもブルジョア的利害というものは、他のそれに対立する利害の何でもかんでも、自身の挫折に引っ張り込んで道連れにしたがる。

 

そこで、新たな生命を疲れ果てさせるために、自身の断末魔の苦しみを、一見根源的な存在論的なものにみせかける。

 

ブルジョア的存在の行きづまりが、人間的状況一般の、存在そのものの行きづまりに拡大される。

 

むろん、長続きはむりである。ブルジョア的な空無化は、そのなかでだけ発言を繰り返している階級同様、一日天下のはかないものであり、その階級にはつきものの、自身の悪しき直接性という見せかけの姿同様、フラついたものである。

 

希望のないことは、それ自身、現世的な意味でも事象的な意味でも、何よりも耐えがたいことであり、人間の諸要素にとってまったく我慢のならないものである。

 

 

だからこそ、欺瞞ですら、それが有効であるためには、おべっかをつかい、堕落したやり方で希望をかきたててはたらかざるをえないのである。

 

だからこそ、くり返しまた希望が、ただの内面性に限定するにせよ、彼岸への慰めで釣るにせよ、あらゆる説教壇から説かれる。

 

だからこそ、西洋哲学の最後のごろつきどもでさえが、乗り越え、踏み越えるという概念を質入れしないことには、もはやかれらの悲惨(ミゼーレ)の哲学を提出することができないのである。

 

それはすなわち、人間は本質的に未来によって規定されているということにほかならないのだが、ただし、未来とは、バー未来喪失亭の看板でござい、而して人間の運命は無なり、という、みずからの階級状態から具象化した、シニカルな関心にもとづく意味合いでのことでしかない。

 

 

ブロッホ「希望の原理」第1巻(白水社 1982年) まえがき 18頁13行 〜  19頁4行

 

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ここで言われている「ブルジョア的利害」に関わるものとして考えられるのは、次のようなものでしょうか。

 

私有財産

・利益を得るための市場競争の原理

・立場を保証する社会構造

 

それらを損なうような世の中の急激な変化は、ブルジョア階級からは当然忌避されるでしょうし、変化に巻き込まれて挫折に直面すれば、自らを含むすべての世界が終焉すると考えるかもしれません。

 

ブロッホは、「ブルジョア的利害」を価値観の主軸においている人々は、変革に直面した世界に希望を見出すことができず、そうした行き詰まりに巻き込まれることは、「人間の諸要素にとって」我慢のならないことだと言ってるように思われます。

 

ここでブロッホのいう「人間の諸要素」とは、「希望」を抱くことのできる人間の精神性ではないかと思われます。

 

それは、苦痛や不具合、時には恐怖に満ちた現状より好ましい状態を求め、実現できるかもしれない未来を思い描き、世界を変えるための方法を見出す力でもあるでしょう。

 

ブロッホのいう「ブルジョア的利害」が、現状を維持したまま利益を得ることを固執するものであるならば、たしかにそれは「希望」とは相反するあり方でしょう。

 

ただ、ここで強く批判されている「ブルジョア的」であるとされる階級や価値観も、元をたどれば過去の誰かが抱いた希望に導かれて、それ以前の価値観や社会構造を否定し解体したことによって出現したものであることを考えると、同様の階級批判、社会構造批判は、いずれまた未来で別の対象を相手に繰り返されることになるのかもしれません。

 

「乗り越え、踏み越えるという概念を質入れ」という暗喩は少しわかりにくいですが、もともとは価値の高い品物を質屋に預けて、本来の価格とは釣り合わない金銭を引き出して当座を凌ぐという意味であるとすれば、その姑息さが批判されるのはわかるように思います。

 

ブロッホに「西洋哲学のごろつきども」と言われる人々が具体的に誰であるかはわかりませんが、おそらくニーチェのいう「超克」や、ヘーゲルの「止揚(アウフヘーベン)」といった概念を、安っぽく使い回していたのではないかと想像されます。

 

 

本文から大きく話がそれますが、ここで批判されているブルジョア階級、ブルジョア的利害などの文字列と、批判の勢いの強さに触れるたびに、倉橋由美子の「パルタイ」などの初期作品が思い出されます。

 

 

 

 

パルタイ」を読んだのは高校時代で、内容は朧になっていますが、描かれているのは、おそらくは共産主義を掲げる政党への参加を恋人に勧められた主人公が、党員の気持ち悪さと、そこに参加する自分というものに強い違和感を持ち、入党した直後に脱退を考えるというような話だったと思います。

 

 

そういう倉橋由美子作品にどっぷり浸ったまま大学に入ったので、入学早々、ボッチの私を追い回してオルグ(?)しようとする民青や中核派の学生たちが、キャンパスに屯して糞を撒き散らすペンギン様のクリーチャー(そういうのが出てくる倉橋作品がありました)に見えて仕方がなかったのを覚えています。私を追い回す彼らの目には、私という「個」は全く映り込んでいませんでした。垢抜けなくて御しやすそうなボッチの学生を組織に繰り込んで、彼らが何がしたかったのかはわかりませんが、当時の私には、自己を肥大させようとする単純な本能に従った行動にしか見えませんでした。彼らが滔々と語る政治的理想が全く心に染みこまず流れ落ちるだけだったので、その場にとどまる時間が惜しくなった私は、「自宅に病気の母親がいるので帰宅したいし、そういうものに参加する時間はありません」と伝えたのですが、そのことをも政治のあれやこれやに結びつけて話を繋ごうとされたので、バスの時間を理由に席を立って帰りました。

 

かつて、ブロッホの鋭い洞察と毒舌によって、戯画化され批判されたブルジョア的価値観ですが、そのブルジョアを批判するべくして生まれたのであろう組織も、組織ではなく個を尊重する価値観によって、手ひどく戯画化され、その硬直化を批判されていたことになります。

 

では、その個を尊重する価値観は、その後どうなったのか。

 

もしかすると、政治や社会問題への無関心や、知らず知らずのうちに全体主義的な方向へ浮遊しているのかもしれない世界的な傾向などを経て、いずれ大々的に叩かれる時期がくるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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