前回の続きから。
来たるべき未来は、恐れられ、あるいは期待されているものを含む。人間の志向にしたがえば、つまり挫折がなければ、それはもっぱら期待を内容とする。
希望の機能と内容はたえずやむことなく体験されている。そして、上昇する社会の時代にあっては、それが絶えず能動化され、拡大された。
ただし今日の西欧のように、下降する老いた社会の時代には、ある種の部分的なうつろいやすい志向が、ひたすら下方への一途をたどる。
そのとき、下降から抜け出せない人びとにあっては、恐怖が希望の前にたちはだかり、希望にさからう。
そのとき、恐怖は危機現象の主観主義的な仮面として現われ、ニヒリズムがその客観的な仮面をなす。
危機現象とは、つまり、耐えてはいるが見通されてはいず、嘆いてはいても転換されてはいない現象のことである。
転換は、ブルジョア的基盤の上では、ましてすでに深淵が現れブルジョアがはまりこんでしまっている現状では、どっちみち不可能であり、転換がかりに望まれている----そんなことはおよそないが----ばあいですら、無理な話である。
「希望の原理」第1巻 まえがき 19ページ 4行-12行
20世紀において、西欧が「下降する老いた社会」となった「挫折」とは、何だったのでしょう。
21世紀の世の中には、国家が植民地支配のような一方的な利潤の追求によって膨張し発展する状況を「上昇」と見て手放しで喜ぶ人は、おそらくあまりいないだろうと思います。そうした「上昇」は、いずれバランスを欠いて破綻するということは、私のような歴史音痴、社会音痴でもうっすらと理解しています。
破綻を経験しないうちは、多くの人々が期待される未来を希望として抱きながら能動的に、近代化や工業化、帝国化を目指して活動するというのは、よく理解できます。
そして、世界恐慌や世界大戦といった、致命的な破綻に巻き込まれたとき、「上昇」の恩恵の枠から滑り落ちた人々が恐怖に襲われただろうことも、想像できます。
二十歳くらいのころに読んだ、スタインベックの「怒りの葡萄」は、1930年代のアメリカで、過剰な開墾による耕作地の荒廃と農作業の機械化によって土地を追われた貧困農民層の、希望のかけらもない境遇を生々しく描いた作品でした。
「怒りの葡萄」で語られる圧倒的な不幸の主役は労働者階級でしたが、国内に貧困が蔓延しつつある状況で、ブルジョア階級が無傷であるはずもないわけで、資本主義の基盤が出口の見えない不況という深淵にはまり込んでしまったら、お金持ちの階級の人々の顔にも恐怖とニヒリズムの仮面が貼りつくのも、無理からぬ話でしょう。
希望を抱いて努力しても社会の中では報われない、市場における自由競争が誰もが負ける戦いとなる、議会制民主主義が大量死をもたらす戦争を選択する、ひたすら耐えても先行きは見えない……見事なディストピアの出来上がりです。
などと書きつらねていると、自分が生まれた20世紀という時代が、とんでもない絶望の深淵を通過していたように思えてきますが、そして実際そうであったのでしょうが、破綻の後には再構築があり、紆余曲折があったものの、なんだかんだで世の中は別のフェーズを迎え、破綻はしても滅亡はせず、しぶとくやりくりして、現在に至ります。
いまの社会が、ここで言われているような、かつての転換不能な下降による恐怖やニヒリズムを克服したと言えるのかどうかはわかりませんが、潰れずに存続している理由があるとするなら、それはブルジョアとかプロレタリアートといった階級の性質だのイデオロギーだのに由来するものではない、そうした枠組みとは別のところに由来する何かだったのだろうな、ということを、なんとなく思っています。
「怒りの葡萄」のラストは、主人公一家の死産した娘が、飢えて行き倒れた男性に、母乳を飲ませて助けようとしている場面だったように記憶しています。生きてりゃなんとかなる、という感じで、先史時代から人類はずっとやってきたのでしょうから。
