いつの時代にも、人びとのみた夢はなんと豊かなものだったろう、可能であるかもしれないよりよい生活についてみた夢は!
(エルンスト・ブロッホ「希望の原理」第1巻 まえがき 1982年)
この「いつの時代にも」のなかに、私たちが暮らす21世紀は含まれていません。
「可能であるかもしれないよりよい生活」について、いまの日本人は、どれほど豊かに語っているものなのか……少なくともこの数年、そういった話を、身近で直接聞いた記憶がありません。
しばらく前に、ネトゲのハンドルネームで「老後資金二千万」という人がいたのを見かけました。こういう漠然とした、差し迫っていない世知辛さみたいなものを帯びた願望は、時折見聞きするように思いますが、あまり豊かな夢という印象は受けません。
この「まえがき」の前にある「日本語版によせる序言」(1973年1月)の冒頭には、「人びとのみた夢」こそが、社会を変革させてきた原動力であると書かれています。
『希望の原理』は、一九一八年の『ユートピアの精神』にあらわれた根本思想から成立した。
その根本思想とはすなわち、歴史の中に生まれ育ってきた、よりよい生活をもとめる願望のさまざまな表象(イメージ)こそ、すべての国々の革命的な運動において原動力としてはたらき、さらにそれを前へとおし進めてきたものであり、そしてまた、十九世紀の産業革命から生まれたテクノロジー的産業資本主義を、その泥を掘りかえしてはそれを乗り越えようとする社会主義と、たえず止むことなく対決させているところのものなのだ、ということである。
「ユートピアの精神」が出版された1918年のヨーロッパは、第一次世界大戦による甚大な被害を受けていて、人々は食糧難とインフレに苦しみ、さらにはスペイン風の猛威によって数百万人が亡くなるという苦境に喘いでいました。
工業化が進んだ都市部では、多くの人々が工場などでの低賃金での長時間労働に従事していました。住宅不足や劣悪な衛生環境のためにスラム化する地域が出現する一方で、農村からは人口が流失して人手不足となりつつありました。
そんな状況で、1918年当時のヨーロッパの庶民が、どんな「よりよい生活」を夢見ていたのかを、2025年の日本で生きている私が想像してみても、わかることは少ないので、とりあえずAIに質問してみたところ、次のような答えが帰ってきました。
1918年ごろのヨーロッパの人々――特に一般市民が思い描いた「よりよい生活」のイメージは、戦争の終結という現実の中で、切実でありながらも希望に満ちたものでした。以下に、具体的な生活の理想像をいくつかご紹介します。
平和と安定のある日常
戦争のない日々:家族が無事に帰還し、爆撃や徴兵の恐怖から解放されること。
安全な住まい:戦火を逃れた家、雨風をしのげる屋根、暖炉のある部屋。
静かな夜:空襲警報のない夜、子どもたちが安心して眠れる環境。
衣食住の充実
食糧の安定供給:パン、牛乳、肉、野菜が手に入り、配給に頼らない食卓。
暖かい衣服:戦時中は古着や再利用が多かったため、新しいコートや靴は憧れの的。
清潔な水と衛生:スペイン風邪の流行を経て、衛生環境の改善は切実な願いでした。
働くことの尊厳と余暇の喜び
安定した雇用:工場や農場での仕事があり、家族を養える賃金が得られること。
労働時間の短縮:長時間労働からの解放、週末の休息。
娯楽の復活:映画館、劇場、カフェでの語らい。音楽やダンス、読書の時間。
家族と地域のつながり
家族の再会:戦地から帰還した父や兄と過ごす日々。
地域の助け合い:隣人との交流、教会や市場でのふれあい。
子どもの教育:学校が再開し、未来への希望を育む場が戻ること。
社会的理想と未来へのまなざし
女性の権利拡大:戦時中に働いた女性たちは、選挙権や社会参加を求めるように。
民主主義の進展:王政や独裁からの脱却、国民の声が政治に届く社会。
国際協調の夢:戦争を繰り返さないための国際連盟構想(ウィルソンの十四か条)など。
第一次世界大戦での都市部の空爆の印象が薄かったので、「空襲警報のない夜」という記述に少し驚いたのですが、ドイツ軍がイギリス本土に繰り返し爆撃を行なっていたようで、当時は戦闘機が地上を攻撃するという意識が低かったために、逃げるということをしなかった住民が多数犠牲になったと、wikipediaの記事にありました。(「ドイツによる戦略爆撃」の項)
産業革命と戦争の近代化によって、都市部に暮らす人々の現実が、だいぶ地獄に寄ったものになりつつあっただろうことは伺えます。
1918年ごろのヨーロッパの状況が、産業革命と資本主義によってもたらされたともいえる、悪夢のような現実だったとしても、その状況下にある人々の見た「よりよい生活の夢」は、AIがまとめたように、その一つ一つは素朴でささやかなものだったかもしれません。
けれどもブロッホは、そうした「夢」こそが、革命の原動力であり、資本主義と社会主義とを止むことなく対決させているのだと言います。
第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて、資本主義にカウンターをかますものとして生み出されてきたイデオロギーは、社会主義だけではなく、ブロッホがドイツ脱出を余儀なくされたナチズムなどもあるわけで、そのナチズムも、いわばアドルフ・ヒトラーという一個人が夢見た「よりよい生活」を原動力としたものだとするならば、ブロッホのいう「よりよい生活をもとめる願望のさまざまな表象(イメージ)」が、かならずしも万人にとって善き未来をもたらすものとはならない、場合によっては極めて危険なイデオロギーの暴走にもつながるものだということは、21世紀の地上に生きる人間は心してておくべきではないのかと思います。
それともう一つ、人々の夢見た「よりよい生活」が、テクノロジー的産業資本主義と社会主義の止むことなき殴り合いの原動力だなどと言われると、ささやかな夢を抱く一庶民としては、いささか鼻じらむというか、ちょっと焚き火で焼き芋でもしようと思っているところに核燃料を持ってこられるような違和感があります。
いま現在自分が暮らしている環境が、1918年当時のヨーロッパのように悲惨な状況でも、ナチズムのようなものが台頭したディストピアでもないからこその違和感であるのかもしれません。
そしてまた、イデオロギー同士の殴り合いやせめぎ合いが、人々の暮らしを具体的に「よりよく」した事例が、歴史上どれほどあるのか、私は知りません。ほんとうにそれはあり得るのか、とすら言いたくなります。
などと考えてしまうのは、日本が西洋的な革命によって変わってきた国ではないからなのかもしれません。
(_ _).。o○
恒例の蛇足。
20世紀初頭のロンドンのスラム街を爆撃するドイツ軍と戦っているらしき切り裂きジャックっぽい誰かの絵をAIのCopilotさんにお願いしたら、こうなるだろうなという感じにもとめてくれました。
