希望という情動は自分の外に出ていって、人間を、せばめるどころか、広々とひろげていき、内側で人間を目ざす方向にむけさせるものが何なのか、外側で人間と同盟してくれるものが何であるのかについて知ろうとして、飽くことがない。
この情動の仕事は、生成するもの━━人間自身もそれに属している━━のなかにとびこんで働く人間を求めている。
存在するもの、見るもあわれな型にはまった、お定まりの、不透明な、存在するもののなかにただ受け身に投げ込まれているだけの、犬のような生活には、この仕事はとても耐えられない。
生の不安と恐怖の索道に抗するこの仕事は、それらの元凶、大部分ははっきりとそれと示すことのできる元凶どもに抵抗する仕事であり、この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする。
それはたしかに見つかるのだから。
エルンスト・ブロッホ「希望の原理」第1巻 まえがき 1982年
瑣末な問題かもしれませんが、「希望」を「情動」と捉えることに、若干の違和感があります。
「情動」というと、一般的には、喜びや怒り、恐怖のように、身体表出を伴うこともある、一時的な情緒のこととされます。
「希望」は「情動」なのでしょうか。
少なくとも、日本語の「希望」は、「情動」そのものとしては捉えにくいように思います。
こうなればよいという願い、望みがかないそうだという良い見通しを「希望」であるとするなら、たしかにそれらを心に抱くことによって感情が動くことはあるけれど、「希望」自体は情動のきっかけとなる事柄であって、情動そのものではないでしょう。
ただ、心に抱く願いや見通しというものは、それが叶えられない、実現しないかもしれないということに対する不安や恐怖と表裏一体のものでもあります。
「希望」は情動そのものではないかもしれませんが、情動に極めて近いところで生み出され、常に情動とともにあり、情動と不可分のものでもあります。そうであるならば、一体のものであるとしたほうが、「希望」が人の人生のなかで何をなすのかを捉えやすいのかもしれません。
では、「希望の仕事」とは、どのようなものなのか。
この数日、大河ドラマ「べらぼう」を一気に視聴していたのですが、主人公の蔦屋重三郎の行動は、まさにここで言われている「希望の仕事」そのもののように思えます。
ドラマの中の蔦屋重三郎は、吉原という閉じた環境の中にあって、実現する可能性のないような夢を抱き、外に出て自分の世界をどんどん広げ、同盟者を次々と見つけて繋がり、出版という手段で、恐怖や不幸を生み出す元凶となるものたちと戦おうとしています。
彼の周囲には、環境に抗うすべを持たず、希望とは無縁の生活をしている人々が大勢いました。売られてきた女たち、孤児たち、江戸の中で差別されている「吉原者」たち。
ドラマの蔦屋重三郎は、「希望の仕事」に耐えられそうにない境遇の人々の現実から目を逸らすことなく、そのなかに商機すら見出して、その場をよりよいものに変えるために、新しいものを生み出そうとしていました。それはブロッホのいう「この世界のために役立つものを世界そのもののなかに求めようとする」仕事と言えるのではないかと思いました。
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AIのCopilotさんに、希望に満ちた吉原の花魁の絵をお願いしたら、火星みたいな背景に、またしてもロケットが登場しました。吉原花魁エクソダス計画ということかもしれません。

そういえば、前回のイラストもエクソダスでした。
Copilotさんは、私のことを「エクソダス好き」と理解しているのかもしれません。
