映画「国宝」があまりにもすごかったので、帰宅後すぐに原作小説(Kindle版)を入手し、昨日の夜に読了した。
要所要所は映画とほぼ同じだけれど、原作にしかない魅力もふんだんにあり、読み応えは十分だった。
(以下、ネタバレ要素まみれなので、映画未見、原作未読の方は、スルーをお願いします)
主人公たちを取り囲む人々、とくに喜久雄と関わりの深い女性たちのエピソードは、映画では全く取り上げられていなかったり、大きく改変されていたりした。
まず、歌舞伎の修行を始めたばかりの喜久雄に惚れ込んで、二号でも三号でもいいからと付き合いをせがんだ芸妓の市駒は、映画とは違って、喜久雄とずっと関係を持ち続けている。二人は結婚はしなかったものの、娘の綾乃の両親として支え合い、共に孫の誕生に歓喜するという未来を迎える。
娘の綾乃は、映画ではラスト近く、喜久雄が人間国宝になった直後に再会し、母と二人捨て置かれた恨みを告げる場面があるけれども、原作小説の綾乃は、中学時代に悪い仲間に引き込まれてシンナーや薬漬けになるというどん底の時期を経て、喜久雄の伝手で、俊介夫妻の元に預けられ、俊介の妻となっていた春江によって見事に更生を果たし、幸せな結婚をする。
不遇時代の喜久雄に騙されて関係を持ってしまった彰子は、映画では、共に底辺の生活を送るうちに、喜久雄の心が全く自分にないことを悟って去っていきますが、原作では最後まで喜久雄の妻として、その芸を支え続けている。
小説版では、歌舞伎界から干されてしまった喜久雄は、新派劇の世界に移り、歌舞伎とオペラが融合した舞台で注目を集めるのだけど、その舞台のパリ公演を実現させたのは彰子だった。
花井白虎の妻、幸子は、映画では愛息子の地位を奪った喜久雄に怒りをぶつけ、家族を顧みることなく歌舞伎だけに人生を捧げる夫と息子に対しても、やりきれない気持ちを抱く女性だった。
原作の幸子は、一時期は失意のあまり、おかしな宗教にハマってしまうのだけど、一度は歌舞伎から逃げ出した息子の俊介が戻り、歌舞伎界に復帰することになると、覚悟を決めて、俊介の妻となっていた春江を立派な梨園の女将に育て上げる。老後は、春江に迷惑をかけられないといって自ら老人ホームに入ってしまうのだけど、俊介が病死したあと、春江によって強引に自宅に連れ戻されて、本家の大女将として一家を束ね、孫の一豊と春江を支え続けることになる。
喜久雄の父が殺害された新年会の夜、喜久雄と共に「関の扉」を演じた徳次という少年は、映画ではその後の出番がなかったけれど、原作では最後の最後まで喜久雄の人生の芯になる部分を支え続ける、重要な役どころとなっている。
喜久雄の一人娘である綾乃が、暴力団がらみの集団に取り込まれて薬漬けにされていたとき、組長と直談判し、指をつめて引き取ってきたのは徳次だった。その後、徳次は中国大陸で一旗上げると言って、喜久雄の元を去っていく。元から風来坊のような性質で、以前にも北海道で一旗上げると言って去り、無一文になって帰ってきた徳次なので、きっと同じようになるか、戻ることもないのだろうと思わせておきながら、本当に大富豪になって帰ってくる。
本作では、喜久雄と俊介が、歌舞伎の世界での陽と陰、光と影を、互いに入れ替わりながら担っている印象だったけれど、喜久雄にとっての徳次の存在は、現実世界と芸術の世界が、完全に分離してしまうことのないように結びつけているもののように思えた。
小説では、ラスト、喜久雄が狂気の世界に入りかけてしまう時点で、徳次が戻ってくる。
残念ながら、徳次と喜久雄の再会のシーンは描かれていないけれども、舞台上から観客席まで巻き込んで、この世ならざる狂った美の世界へと行きかけている喜久雄を、殴り倒してでも連れ戻して生かしてくれるかもしれない。
それはともかく、小説のラストでは、そこまでずっと柔らかな第三者視点で語り続けていた地の文が、突然、姿を現す。
愛想笑い一つできぬ、不器用な役者でございます。我が道しか見えず、多くのお客さま方からお叱りも受けてまいりました。おそらく当代の人気役者としては失格なのでございましょう。しかしそれでも、この歌舞伎座の大屋根から見下ろしておりますと、その不器用な役者の姿が、父親の仇を討とうと、朝礼の最中に駆け出した、あの一途な少年の姿に重なってくるのでございます。
ですからどうぞ、声をかけてやってくださいまし。ですからどうぞ、照らしてやってくださいまし。ですからどうぞ、拍手を送ってくださいまし。
日本一の女形、三代目花井半二郎は、今ここに立っているのでございます。
吉田修一「国宝 下 花道篇」
読了した瞬間に、あんた誰と声に出して聞きそうになるほど、この部分にはぎょっとした。終局間際に明かされる徳次の大出世にも驚いたけど、それとは別次元の不気味さがある。
作中、喜久雄が、歌舞伎座の舞台の上から、誰のものかわからない視線を感じる場面がある。同じエピソードは、映画でもあった。
このように静まり返った歌舞伎座の舞台に立っておりますと、喜久雄はいつも誰かの視線を感じます。
ここにいるのは自分と俊介だけ、もちろん舞台裏にスタッフの一人や二人は残っているのでしょうが、そういうことではなく、自分たちがいるこの歌舞伎座の舞台を、真上から誰かがじっと見下ろしており、もちろん見上げたところで、その誰かと目が合うわけでもないのですが、そこに誰かがいるのは明らかで、芸道の神様として慈悲深く見下ろしているという風でもなく、かといって厳しく睨みつけている風でもなく、どこか楽しげに眺めている風なのでございます。
そしてその誰かは喜久雄が初めてこの舞台に立ったときから、いや、もっと昔からずっとそこにいたはずで、これはどう説明のしようもないことなのですが、喜久雄にはその気配がはっきりと伝わってくるのでございます。
「国宝 下 花道篇」
たぶんこの視線の主が、物語の語り手であり、歌舞伎座の大屋根から見下ろしている何者かなのだろうけども。
人の生み出す美を慈しみ愛でて、その人生ごと柔らかく見守りつづける存在、なのだろうか。
最後の最後に大きな謎を残されたけど、この謎は解く術がなさそうだ。
吉田修一という小説家は、なんだか油断がならない、ということは記憶しておこう。

