おき火 都良香
流れ出づる方だに見えぬ涙川おきひむ時やそこは知られむ
(ながれいずる かただにみえぬ なみだがわ おきひむときや そこはしられむ)
古今和歌集 巻十 物名 466
【語釈】
- 涙川…涙が流れるのを川にたとえていう語。
- ひる(干る)…乾く。干上がって水がなくなる。
- おき…海や湖などの岸から遠く離れたところ。心の深部。
- おきひ…赤くおこった炭火。まきなどが燃えて、炎が出なくなったあと、赤く炭火のようになったもの。
- そこ…ものの一番下の部分。至り極まるところ。奥深く隠れたところ。心の底。
【普通の意訳】
どこから流れ出てくるのか、その方向も分からない涙川ですが、岸辺から離れた沖が干あがれば、川底がどうであるのか知ることができるでしょうし、涙も止まることでしょう。
(_ _).。o○
都良香(834-879)は、平安時代前期の文章博士だった人。
漢詩に秀でていて、歴史などの広い知識を持ち、菅原道真とともに朝廷の制度のあり方などを定めることに尽力したという。
立派な体格をしていて腕力もあったけれど、食事を欠くほど貧しかったと、Wikipediaの記事にあった。
上の涙川の歌が詠まれた背景は分からない。
「涙川」の「流れ出づる方だに見えぬ」というのだから、悲嘆の原因は根深いものであるのだろう。
けれども、彼の心には燃え盛る「熾火(おきび)」が秘められているらしい。
その火が、いつの日か、涙を干上がらせるのかもしれない。
【超ひさびさの、完全に怪しい意訳】
腹が減りました。
食べるものがありません。
あるのは水だけ。
補水するから、涙が枯れることがありません。
泣ける理由すら、もう分からなくなっているのに。
なぜ、ここまで追い込まれなくてはならないのか。
ひたすら学び、才能の限りを尽くして働いていたのに。
飢えた体で不遇の泥川にずぶずぶと沈んでいくばかり。
それでも僕の胸の奥底には、まだ赤く燃える火が残っているみたいです。
いつの日か、この心奥の熱で涙の川を干上がらせることができたなら、
いまこうして川底に沈みかけている僕という人間の真価が見出されるのかもしれませんけれども。
きっとそんな日が来る前に、僕の命は尽きてしまうことでしょう。
ねえ、良香さん
僕よりだいぶ先に「行って」しまったあなたに聞きたい。
僕らの人生って、何だったんでしょうね。
もしも、あの頃のあなたの胸の中にあった真っ赤な熾火が、いまも熱を残しているのなら、
こんなところで消えていくだけの僕の命にも、生きた意味があると思える気がするんだけど…
……
うわあああああっ
なんか、ものすごくヤバい夢見た。
左遷されたインテリ男が太宰府あたりで飢え死にしかけてて、俺に向かって延々と恨みつらみを語っているっていう。
でもって、俺、死んじゃってるの?
いや、まだ「逝って」ないよね!??
うわ、寝汗びっしょりだわ。
汗が出るってことは、生きてるってことだよな。
はらぺこだけどな…
だいぶ老け込んでたけど、夢の中のあれって、菅原道真くんだよな。
顔と声、間違いない。あの天才青年だよ。
まだ二十代だっけか。知識も才能も俺とは比べ物にならないほど上なんだけど、
なんか世渡り下手くそなんだよなあ、あいつ。
まあそのあたり、俺も人のことは言えないけどさ。笑えるほど金ないし。
それにしても、やけにリアルな夢だったな。
もしかして、予知夢ってやつなのか?
道真くんて、藤原北家方面に微妙に睨まれてる感じはあるけど、いまのとこ、関白の基経様との関係はそんなに悪くなさそうだし、今の状況で左遷とかないよなあ。
にしても、餓死寸前って、ただ事じゃないよな。
本人に知らせるべきかな、これ。
道真くん、君、遠い将来に太宰府で飢え死にしそうだから、用心したほうがいいよって。
…言ったって、信じるわけないよなあ。
心の熾火か。
道真くんは根っからの詩人だけど、夢のなかの美しい世界に生きてるだけのポエマーじゃないんだよな。彼は、明確な思想を持って世の中をよくしたいって考えてる為政者の卵だと俺は思ってる。
俺だって、そうありたいと願ってるさ。
自分の手でそれを実現できるとは思ってないけど、学んで、書いて、残していくことで、俺なりの熾火を残せるような気がするんだ。
うん、今度会ったら、いっぱい書けって、励ましておこうかな。
まあ言われるまでもなく、あいつは書くだろうけどな。
(_ _).。o○
都良香は、871年ごろ、菅原道真とともに、太上皇后だった藤原順子の服喪について、中国や日本の法典を参照して、指針を決定する仕事をしたという。
当時の道真は二十代後半で、都良香はその8年後に亡くなっているため、良香は道真の数奇な後半生については知らないまま逝ったことになる。
良香の死後、道真は宇多天皇の厚い信任を受けて、899年には右大臣に昇進したものの、家格の低さなどから激しく中傷を受けたため、何度も辞任を申し出たけれども却下され、逃げることができなかった。
結果、901 年(昌泰4年)、宇多上皇と醍醐天皇の確執に巻き込まれ、醍醐天皇を廃位させて自分の娘婿を即位させようとしたという讒言によって、道真は太宰員外帥という中途半端な地位を与えられて、左遷されることになる。(昌泰の変)
太宰員外帥という立場では俸給もないため、道真は自腹で任地に赴き、従者も与えられず、食うや食わずの生活をしていたと考えられる。
道真の死後、清涼殿に雷が落ちるなどして関係者が多数亡くなったことについて、道真の怨霊の仕業であると恐れられるようになったのは、祟られても仕方がないほど酷い仕打ちをしたという自覚が、敵対した側にあったためだろう。