こんにちは。
X(旧Twitter)をつらつらと眺めていたら、触ると危険な植物と言われているナガミヒナゲシのそばに、育てると捕まるアツミゲシ(麻薬の材料)が生えている場合が結構あるらしいことに気がついた。
アツミゲシを見つけて通報したというXユーザーさんたちの写真に、ナガミヒナゲシが一緒に写り込んでいることが多いのだ。
麻薬になるような違法なケシを見つけた場合は、警察か自治体に連絡すべきだそうで、毎年の恒例行事のように通報している方々もいるようだ。
うちの近所ではまだ見かけないけど、近県で大繁盛している事例もあるらしいので、種が飛んでくるのは時間の問題かもしれない。
植物を見分けるのは苦手だけど、外歩きのときに、少し注意して道端を観察してみようと思う。
↓近所のナガミヒナゲシ
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朝起きたら、いつものように全身が痛かったけど、気分はまずまず。日曜日のライブの疲れが、ようやく取れた感じ。
思えばあの日、会場でうっすらパニック発作を起こしていた。終演後、感動で胸がいっぱいだったけれど、足がガクガク震えて、理由のない不安感や自罰意識で、かなり参った。
今日は、息子の精神科の代理受診のために、朝8時半ごろ家を出た。
それほど混んでいなかったので、読書する暇もなく診察終了。ちょっもがっかり。
買い物などに寄らず、まっすぐ帰宅。
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末っ子(20歳)は大学へ。
お昼過ぎに亭主が出勤していった。
末っ子がゼミの発表で「堤中納言物語」の「はいずみ」あたりをやるというので、ひやかし目的で、Kindle Unlimited(読み放題)で角川ソフィア文庫版をダウンロードして、読んでみた。
簡単にいうと、二股男のせいで、女性二人(元妻の後妻)が無駄に振り回されるお話。
女性たちには、特に落ち度はない。
ただただ男が浮気性で優柔不断なだけ。
二股男は後妻の両親に圧をかけられて、行き場のない元妻を、牛車にも乗せず、馬に乗っけて、家から追い出してしまうのだけど、その様子があまりにも哀れだからと、連れ戻してしまう。
その後、後妻はというと、二股男が様子伺いに突然訪問したのに動揺し、白粉と間違えて顔に「はいずみ」(菜種油などの油煙を掃き落としたもので、眉墨などに使う)を塗りたくってしまい、その顔で対面したために、驚いた二股男は飛んで逃げる。男に圧をかけていた両親は、バケモノのようになった愛娘の顔をみて気絶。娘も鏡を見て絶叫。おしまい。
なんだかな。(´・ω・`)
このお話を、文学研究ではどんな風に扱うのだろう。
ネットで読める先行論文が結構ありそうなので、ちょっと勉強してみようと思う。
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最近、お友達とのチャットで柄谷行人がちょろっと話題になることがあったので、著作の中で比較的読みやすい(当社比)「言葉と悲劇」をちょろちょろ読んでみたのだけど…
数行ごとに、「え、なんでそうなるの?」って言いたくなる。
最近、私はウィトゲンシュタインについて書いていますが、彼はたとえば、「動物がしゃべらないのは考えていないからではなく、たんにしゃべらないのだ」と述べています。
逆にいえば、人間は考えがあるから言葉をしゃべるのではなく、たんにしゃべるのだということ。それは、飯を食ったり歩いたりするのと変わらない「自然史的」な問題だということですね。
「言葉と悲劇」より
ウィトゲンシュタインの言っていることは、動物が言語を持たないのは、思考の有無とは無関係だということだろう。
それと同じように、人間は考えがあるから言語を持つようになった訳ではない、というのも、まあわかる。
たとえ考える能力があっても、言語を表出する能力を持たなければ、あるいはその能力を奪われたなら、人はしゃべれない。
でもそれって、「自然史的」な問題なのか?
そもそも「自然史」って何なのか。
しぜん‐し【自然史】
1 人類発生以前の自然界、または人間以外の自然界の発展の歴史。自然界を人間の存在に関係あるものとして、歴史的な意味を与える考え方による概念。
2 マルクス主義で、自然を弁証法的に発展するものとして歴史的にとらえる概念。社会の発展も人間の意志や意識から独立した法則によって発展する自然史的過程として理解される。
どっちの意味も、この文章に出てくる「自然史」には、当てはまらないように思う。
この、なんだかよく分からない「自然史的」な「言葉」は、この後ますます分からなくなっていく。
言葉によってあり、言葉によって生きることが自然史的な条件だということは、それをとり除くこともできないし、解決することもできないということです。
前期ウィトゲンシュタイン自身を含め、哲学は、この曖昧な(両義的な)言語を超えること、一義的に明確な思考に到達することをめざしてきました。
「言葉と悲劇」より
言葉が「自然史的」なものであるということが、当たり前のように「曖昧な(両義的な)」ものであることにすり替わっている。
なんでそうなるの?
最初のほうで、「しゃべることは、飯を食ったり歩いたりすることと変わらない」と言いい、それが「自然史的」であると言っているので、ここで言う「自然史的」というのは、辞書にあるようなマルクス云々とは無関係で、人間の生物としての特性、あるいは先天的に備わっている能力や性質という意味なのかなと思うけれども(だったらそう書けばいいじゃんとも思う)、そのことと、言語の両義性とを同一のもののように言うのはどうなのか。
持っている能力がアプリオリなものであるからといって、それが曖昧で両義的なものであると、なぜ言えるのか。
もちろん、一義的で明確な思考を言語によって完全に表現し、他者に正確に伝達することは、たぶん不可能だけれど、それは言語能力が問答無用で人間に備わったものであることとは、関係ないだろう。
そもそもこの「言葉と悲劇」という本のこうした度し難い訳の分からなさ(私への伝わらなさ)が、言語の曖昧さや両義性を見事に体現しているとも言えそうだけど、これほど訳が分からないのは単純に私の頭が悪く思考が拙いせいかもしれないわけで、そう考えるなら、確かに人間は(優れた)思考があるから喋るわけではなく、単に喋る生き物として存在しているから喋るのだという話は、非常に納得できるものではある。
そしてそれは、確かに悲劇的ではある。
何を書いても伝達に失敗することが確定している言語によって本を執筆し続ける哲学者なんて、悲劇のヒーローでしかない。
いや、むしろ笑うところか?