湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ねこたま日記(5月9日)

こんにちは。

 

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たるんでいる。(´・ω・`)

 

ちょっと無理して動くと微熱が出たりする、というのを口実に、出歩く機会を極限まで減らしているから、またじわじわと体力が落ちている。

 

もう一度、気持ちを入れ替えてリハビリしないと、10年後には寝たきりになりそうだ。いやその前に、体力無くして寿命が尽きるかもしれない。ちょっとした風邪とかで、コロッと。🪦

 

(お墓の絵文字なんて、あるんだ…)

 

病気をいろいろ抱えているとはいえ、きちんと合理的に健康維持の努力をすれば、それなりに生きられるはずなのだ。

 

意欲、なんとか取り戻そう。

 

 

(_ _).。o○

 

備忘録。

 

今週日曜日の教会学校は、どうにも身体がしんどくてお休みした。

 

火曜日は、長女さん(28歳・ASD)がグループホームから一時帰宅したので、パイを焼いた。

 

アップルパイとパンプキンパイ。

冷凍のパイシートを使ったので、楽にできた。

 

焼き上がったのを見た息子(27歳・重度自閉症)が、「ケーキ!」と叫んで大興奮したので、「これは、パイだよ」と何度も教えたのだけど、息子にとって、私がオープンで焼くお菓子は、クッキーでなければケーキということになるようで、なかなか納得してくれなかった。

 

次はチョコパイを焼いてみよう。

 

(_ _).。o○

 

木曜日は、教会の聖書の講読会に参加した。

新訳聖書の「フィリピ人への手紙」の第四章。

 

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしににはすべてが可能です。それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

 

(フィリピ人への手紙 第四章 11-14節)

 

ローマで囚われているパウロが、自分の宣教活動を資金面で力強く支えてくれていたフィリピの教会の信徒へ、書き送った手紙だという。

 

その支援に感謝しつつ、パウロは、自分がどんな境遇であってもやっていけると伝えている。

 

人が弱くなるのは、困窮している時だけではない。社会的、経済的に恵まれた状況にある人であっても、どうにもならない危険や試練に見舞われることはある。

 

そう手紙に書いたパウロにとって、信徒たちによる支援は、本当は受け取らなくてもどうにかなるものだったのかもしれないけれど、それでも迫害の苦難を共にしてくれたことを感謝せずにはいられなかったのだろう。

 

それにしても、ローマで囚われていたパウロの暮らしとは、どのようなものだったのか。こうした手紙のやり取りや、物質的な支援を受けることができていたのだとすれば、囚人といっても、それなりに締め付けの緩い状態だったのだろうか。

 

パウロがローマに護送されたのは、西暦62年だという。新訳聖書の「使徒行伝」によると、ローマに着いたパウロは、自分の宿舎にユダヤ人たちを定期的に集めて、二年間、イエスの教えを力強く伝え続けたのだという。

 

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

 

使徒行伝 第二十八章 30節)

 

どう読んでも、囚人の生活ではない。めちゃくちゃ緩い。この二年間の生活を、フィリピの教会の信徒たちが物質的に支援したのだろう。

 

使徒行伝の記事はここで終わり、その後については書かれていない。

 

二年後の西暦64年、ローマで大火災が起きて、街の大部分が灰燼に帰してしまう。パウロの借家がどうなったのかは不明だけれど、おそらく消失したのだろう。

 

この火災のあと、ローマではキリスト教徒が火災の元凶とされ、皇帝ネロによって迫害されるようになる。

 

パウロの殉教は西暦60年代後半とされ、十字架ではなく斬首だったというけれども、聖書には、その記述はない。

 

そういえば、同じ時期に皇帝ネロの迫害によって、逆さ十字架で殉教したとされるペテロについても、その最期についての記事が聖書にはない。

 

で、その皇帝ネロは、西暦68年に自殺したという。

 

なぜ重要な使徒の殉教について、聖書に記載されなかったのだろう。

 

伝承や外典などで伝わるという、彼らの殉教の情報は、当時を知る人々にとって、聖書に書き入れるには不確実なものだったのだろうか。

 

あるいは、本当は、彼らは殉教していなかったとか…

 

いろいろと、想像は尽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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