昨日の日記に、四十数年前に目撃した「鬱血痕」、いわゆるキスマークの話を書いたら、読んでくださったお友だちから、どうしてキスマークのことを「鬱血痕」と言うのか、という質問をいただいた。
「鬱血痕」、私はてっきり医学関係の用語だろうと思っていたのだけど、どうもそうではないようで、Wikipediaでは、「吸引性皮下出血」という名称で立項されていた。
ちょっと調べてみた。
キスマークは、肌を強く吸引することで血管が破れて、血液が皮下に漏れて(出血して)しまった状態であるという。
それに対して、鬱血は、血栓などのために血流が妨げられてしまい、血液が滞留した状態であるという。
つまり、キスマークは血管が破れて出血しているけど、鬱血は血が滞っているだけで、出血はしていないことになる。
ということは、キスマークのことを「鬱血痕」と称するのは、状況と合致した用法ではないことになる。
とはいうものの、「キスマーク=鬱血痕」という理解は、それなりに一般化しているようで、ネットではちょくちょく目に入る。私もいつのまにか覚えていた。
「鬱血痕」がいつごろから使われている言葉なのかは不明だけれど、そう古くはないようだ。
青空文庫の全文検索をしてみたけれど、「鬱血痕」は一例も出てこなかった。
自分の記憶を漁ってみても、平成より前に「鬱血痕」という文字列に触れた記憶は見当たらない。
Google検索で出てくる用例で、上位に表示されるものは、「小説家になろう」「カクヨム」「ベリーズカフェ」など、ネット小説のものが多いようだ。おそらく私もネット小説で習得したのだろうけれど、どの作品が初見だったかまでは記憶していない。
「小説家になろう」の運営開始は、2004年4月2日だという(Wikipediaによる)。
私が「なろう」を検索して見つけた一番古い「鬱血痕」の例は、2013年7月から連載が開始された「 身代わりの薔薇は褐色の狼に愛でられる」(白ヶ音雪 著)だった。
Google検索で上位に表示される例のなかで、一番古いものは、2011年3月24日のYahoo!知恵袋の質問文だった。
こういう質問が出るのだから、2011年3月24日以前に、すでに何らかのメディア上に「鬱血痕」の用例が存在していたのだろう。
で、さらに念入りに検索結果を探してみたところ、2008年に発表された、高見生雄「トラフグの口白症病原体関連タンパク質を標的にした本症の血清学的診断法に関する研究」(長崎県水産試験場研究報告 33号 2008年3月)という学術論文のなかに、用例があった。
用例部分を引用してみる。
肝臓の線状出血痕 は半分に満たない61個体に認められた。
肝臓の線状 鬱血痕は、肝臓の表層部に限局的であり, ちょうど線状鬱血痕を生じる部分に後 擬鎖骨が当たることから、「本症状は本症病原体の 感染による直接的な症状ではなく、罹病魚の行動に 伴う二次的症状であり、かならずしも本症の特徴と は言えない(井上氏私信)。」ことを裏付ける結果で ある。
トラフグの肝臓表層部に「鬱血痕」が生じる、口白症という病気についての記述だ。
直前に「線状出血痕は半分に満たない61個体」とあり、その後に「線状鬱血痕」とある。血管の破れの有無による区別かと思ったけれど、この文の前に掲載されている表に、
肝臓の線状鬱血痕 61
とあったので、おそらく誤植だと思われる。
それはさておき、トラフグの肝臓表層部の「鬱血痕」は、どう考えても、人間のキスマークとは無関係だろうし、Yahoo!知恵袋の質問者が、この論文を読んで「鬱血痕」の読みを質問したとは思えない。
ということは、もっと別の用例が2011年3月以前に存在しているはずだ。
で、古めの用例を、さらにしつこく探索してみたところ…
用例の出典が、「とある方向」に絞られてきた。
「 鬱血痕~赤の紐~」(ほんだ作 白色度計)
発売日 2012/05/13
BL系同人誌に掲載された、二次創作であるようだ。
オリジナルは、「忍たま乱太郎」。
試しに「忍たま 鬱血痕」でぐぐってみたら、たくさん出てきた。
忍たま以外の用例も、BL系のものが目につく。というか、ほとんどの例がBLといってもよさそうだ。
「刺青と菊門-彫ってホラれて(1)」(百瀬りん uroco)
【内容紹介】(前略)裸になったルナの身体には、※※にまで鬱血痕が残されていた。
配信開始日:2013年4月12日
(なんか嫌だったので一部伏せ字にした)
「傷だらけの筋肉~覆面マスク下の情事」(麻井キンタ 秋水社)
【内容紹介】
(前略) 見慣れた身体に見覚えのない鬱血痕がたくさん付いていて…。
販売開始日:2015年6月30日
「鬱血痕」の火元は、BL系同人誌の可能性が高そうだ。ただ、いまのところ一番古い例が2012年の「忍たま乱太郎」の二次創作で、2011年以前の例は、トラフグの病気の論文だけだ。
電子化されていない二次創作作品だと、初出例を探すのは困難だろうけど、今世紀初頭の薄い本に造詣の深い方々であれば、把握しているかもしれない。そちら方面に強そうな人に聞いてみようかと思う。
で、ここからは完全に私の想像になる。
「鬱血痕」という単語は、元は生物学系の学術論文など、限定された文章で使われていた。
そうした文献の読者の中に、たまたま、「忍たま乱太郎」を元にした、ボーイズラブ系の二次創作を趣味とする人がいたのかもしれない。
その人は、理学部あるいは農学部の女子学生であり、学業のかたわら、その方面の同人誌に精力的に作品を寄せていたのかもしれない。
ある時、彼女は、いわゆるキスマークをテーマとした掌編を描こうとしたものの、オリジナルが一応時代劇であるため、カタカナ語のキスマークではなく、「鬱血痕」という用語を使うことにした、のかもしれない。
その二次創作を読んだ腐女子の方々は、「鬱血痕」という文字列の、どことなく退廃的かつ印象の強い字面に惹かれて、自分の「忍たま」二次創作作品にも積極的に使うようになっていったのかもしれない。
作品に使われる表現は、作品のレビューでも使われるようになる。その表現の頻度が高まれば、それが読者の注目を集める「お題」として書き手側にも認識され、さらに多くの作品が書かれるようになっていく。
かくして「忍たま」の二次創作界隈で「鬱血痕」の使用頻度が高まっていき、そこからボーイズラブ系の創作へと使用例が広がっていったのではなかろうか。
面白そうなので、気長にサーチしてみよう。
最初の作品、見つけられたらいいな。