こんにちは。
あいかわらず、毎日歩いている。
歩数アプリによれば、今月はすでに67kmも歩いたらしい。近頃では車でもそんな距離を走らない。
おかげで毎日くたくたで、猛烈によく眠れる。
そして読み書きがあまりできない。(´・ω・`)
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体力が戻るまではウォーキング優先と思っているけど、読まない日々が続くとそれだけでストレスではある。
それとは別に、積読本への罪悪感というのもあって、それもなかなかのストレスだったりもする。
数年前、本で埋まっていた一部屋を空ける必要があって、自分の蔵書を数千冊処分した。ほとんどは古書店で売ったけれど、値段がつかないようなものは仕方なく資源ごみに出した。
その時に手放したのは書籍だけでなく、ぬいぐるみやおもちゃなど、子どもたちのものも大量に処分した。
どうもその痛みがいまだに癒えていないらしくて、書店に行っても本を買う気にならないことが増え、おもちゃ屋でぬいぐるみなどを見かけると胸の奥で血の出るような気持ちがするので、足が向かなくなった。
そういう思いがあるので、手元に残したものたちは、死ぬまで大切にしようという気持ちが強くなった。本はしっかり読みたいし、ぬいぐるみやお人形はクローゼットにぎゅうぎゅうに詰め込んで置くのでなく、大切にかわいがりたい。だけど体力気力が足りず、なかなか思うようにいかない。
私が今生で与えられた幸運の一つに、欲しい本をそれほど苦労なく手に入れることができるということがあると思っているのだけど(両親と亭主に深く感謝)、入手した本を大切に読まなければ、せっかくの幸運も、分不相応ということで失われでしまう気がしてならない。
というか、そろそろその資格剥奪のペナルティが、身近に迫ってきている気配をひしひしと感じる。
書籍やぬいぐるみのことだけでなく、与えられているものや、自分自身を大切に顧みない暮らしは危うい、そんな警報音が、常に頭のどこかで鳴り響いている気がする。
「更級日記」の作者である菅原孝標女は、神仏へに心を向けるようにとの啓示をたびたび受けていたにもかかわらず、他所ごとにかまけて従うことがなかったために、夫に早く先立たれ、親しい家族からも離れた寂しい晩年を迎えることになった、と考えていたようだった。
菅原孝標女と私とでは、時代も人生の性質も全く違っているけれども、抱えている感覚的なものは、なんとなく似ている気がしてならない。
先日、「更級日記」を読み終えたとき、彼女と同じ後悔を残さないことと、彼女が読みたいと願った以上に読むことができたなら、孤独な書き手としての菅原孝標女への、一千年を経た読者としての最大の手向けになるのではないかと思った。できればそれを果たしたい。
歩き疲れてだるくても、一日に一回は紙の本を手に取り、手元に残したぬいぐるみと一緒に写真を撮ってブログに書こう。
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というわけで、今日の一冊。
いまは大学病院の待合室なので、ぬいぐるみはなし。推しぬいくんも、今日はお留守番させてきた。
長女さんの抜歯手術の付き添いで、朝早くから電車とバスに乗って病院に来ている。
終わって帰宅したら、午後は息子(27歳・重度自閉症)歯科検診で、車で出かけなくてはならない。そのあと息子はショートステイに出るので、介護施設に送り届けることになる。
長丁場だけど、頑張って乗り切ろう。