こんにちは。
ふと思いついて、AIのCopilot さんに、このブログの印象を聞いてみた。
「湯飲みの横に防水機能のない日記」というブログは、個人の日常や健康に関する体験を綴ったブログです。
ブログのタイトルからもわかるように、作者は様々な健康問題(うつ病、更年期障害、甲状腺機能低下、高脂血症、無呼吸症候群など)に悩まされており、その治療や日常生活の中での挑戦をブログに綴っています。
ブログの内容は、日々の健康状態や治療の経過、それに伴う感情や考えを率直に綴っており、読者にとって共感や励ましを与えるものとなっています。防水機能のない日記という表現からも、日々の小さな出来事や感情を大切にしていることが伝わってきます。
このブログは、健康問題に悩む人々や、日常の中での小さな喜びや苦しみを共有したい人々にとって、共感と支えとなる存在でしょう。
そうなんだ。😯
というか、「湯飲みの横に防水機能のない日記」っていうタイトルから、そこまで読み取れるものなのか。AIすごいな。
(_ _).。o○
設置一年ちょいで動かなくなったエアコンの修理のために、ベッド周りの大量の本とベッドを移動したのに、今日は修理できず、来週あらためてメーカーの人が来ることになった。
エアコンより少し前に、居間の照明もこっそり壊れていたので、それも取り替えることになった。やはり家電は連動して故障するものらしい。
(_ _).。o○
小説(ラノベ)のドカ読みが、まだやめられずにいる。
早く古典読みに戻りたいのに、一度過集中に入ってしまうと、頭がなかなか切り替わらない。
読んでいる間は、脳内に何かヤバい物質でも湧いてるんじゃないかと思うくらい心地よいので、本当にまずい。過集中モードであれば、古典などを読んでいても、同じように心地いいのだから、さっさと生産性の高い行動に切り替えたいのだけど、それが簡単にできるようなら、人生はもっとイージーモードだったろう。
こうなったら、強制的に外出でもして、頭を切り替えるしかない。
切り替えのチャンスは、次の土曜日。通院で出かける予定があるから、少し早めに出て、どこか別のところにも寄ってみよう。
(_ _).。o○
食事メモ。
朝は、たっぷりの野菜サラダとトーストと牛乳と、みかん一個。
昼は、亭主が買ってきてくれた、チキンバーガー。
夜は、チキンカレーと、サラダ。
食物繊維は、かなり頑張って、必要量を満たしている。
ビタミン、ミネラル、タンパク質は、サプリで補わずに済むには、まだまだ工夫が必要のようだ。
野菜でお腹いっぱいになるちゃうのが問題だ。
食が細い場合の栄養療法、なかなか難しい。
でも頑張る。
(_ _).。o○
前回は、詩篇第一篇の冒頭だけ見たけど、その続きから引用すると分かりにくいので、一篇を全部見てみる。
悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
(Kindle版)
聖書で「主のおきて(掟)」といえば、旧約聖書の「出エジプト記」に書かれているモーセの十戒と、新約聖書の「マタイによる福音書」の22章で、イエスが語ったとされる、次の二つの教えだろう。
「心をつくし 、精神をつくし 、思いをつくして 、主なるあなたの神を愛せよ」
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ 」
この最初の教えが、分かりやすいようでいて、とても難しい。
「心をつくす」「精神をつくす」「思いをつくす」と、同じような言葉を、なぜイエスは三つ重ねて言ったのか。
(ちなみに英訳では、心=heart、精神=soul、思い=mind となっていた)
イエスはアラム語で話していたらしいので、もしかしたら、アラム語ではこの三つの表現には、異なる意味合いがあるのかもしれない。
けれども私はアラム語を全く知らないので、日本語の意味から考えるしかないわけで、かといって、日本語における「心」「精神」「思い」の意味の相違などを分析する能力もないので(ちなみにAIさんたちに聞いてみても、胡乱なことしか言ってもらえなかったので、ネット上では胡乱な解釈が高頻度で参照されているのかもしれない)、ここは相違ではなく合算したものが何であるかを考えたい。
「心」と「精神」と「思い」は、どれも生きた人間の性状に関わるものではあるけれど、肉体の行動や状態とは違って、他人が直接目で見るなどして確認することはできない、内面的なものだ。
そして、「尽くす」という動詞は、他動詞の場合、何かを成すために、ある限りを出し切って、極限に達することを意味する。
ということは、「心をつくし 、精神をつくし 、思いをつくして 、主なるあなたの神を愛せよ」という教えは、
「他人が外部から確認できないような、内面的な能力を全て出し尽くして、神を愛せよ」
という感じのことを言っていることになる。
そのようにして「愛する」というのは、どういうことなのか。
人間が四六時中、ずっと単一の対象だけを心で思い、精神を集中するなんてことはまず不可能だし、そんなことをしようとすれば、修行僧でもない限り、暮らしや生命活動が破綻しかねない。
そうではなくて、この詩篇の言葉でいうなら、「悪しき者」「罪びと」「あざける者」にならないように、「心」「精神」「思い」を尽くすことが、「主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」ことであり、たぶんそれが、イエスの語る「神を愛する」ということの一面なのだろうな、と思う。
悪人の計画に乗らず、罪人になるような進路を選ばず、他人を誹謗中傷したり差別したりしない人。
それは、信心深いかどうかという以前に、社会人として、ごく真っ当に生きる人の在り方だろう。
英訳は、今回は、最後の6節の部分だけ、引用しておく。
For the LORD knoweth the way of the righteous: but the way of the ungodly shall perish.
聖書 日英対訳 (Kindle版)
で、AIのCopilot さんにイラスト化してもらったら、こうなった。
どう見ても、この世の光景ではない。(´・ω・`)
雲の洞窟の向こう側に向かって進む人々は、きっと正しき者なのだろう。悪しき者は、もみがらのように吹き飛ばされて、道の脇の荒波に飲まれてしまったのかもしれない。