今回は、有名だけれど謎の多い歌人、額田王の、どうもよく分からない長歌について。
春山と秋山の優劣というか、勝敗が、不思議な理由で決定されている。
天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競はしめたまひし時、額田王、歌以ちて判れる歌
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ さかざりし 花もさけれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木葉を見ては もみちをば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山吾は
万葉集 巻一 16
【語釈】
- 冬ごもり…春にかかる枕詞。
- さる(去る)…(季節や時が)やってくる。
- しのふ…賞美する。思い慕う。
【普通の意訳】
(詞書)
天智天皇が、内大臣の藤原鎌足に命じて、春の山の多くの花々が咲く艶やかさと、秋の山の多くの葉の彩りとを競わせなさった時、額田王が歌で判定を下した、その歌。
……
春が来ると、鳴いていなかった鳥も飛んできて鳴く。咲いていなかった花も咲く。
けれども、木々が生い茂っているから、山に入って取ることもせず、草が深過ぎて、取って見ることもしない。
秋の山の木の葉を見たならば、紅葉を手に取ってその美しさを味わい楽しみ、青葉は取らずに置いて、色づいていないことに落胆する。
そこが恨めしい。
私は、秋の山が良い。
─────
疑問に思うことを挙げていく。
鳥や花で賑わう春の山は、木が生い茂っていて草深いからという理由で、入山して(花を?)取って見ることをしないという。
その一方で、秋の山については、入山の物理的な困難さには一切触れず、現地で紅葉を手にしたり、青葉を取らずに置いて嘆いたりしている。
春と秋で、山歩きや採取の難易度がそこまで違うものなのだろうか?
秋になったからといって、生い茂っていた草木がいきなり減るものではないだろうに。
さらに分からないのは、「そこし恨めし」といった直後に、なぜ「秋山吾は」という判定になるのかということだ。
この「恨めし」が、どうもよく分からない。
岩波文庫版「万葉集」と、佐佐木信綱 校・訳「万葉集」(やまとうたeブックス)では、どちらも直前の「青きをば 置きてぞ歎く」ことが「恨めし」なのだと解釈している。
紅葉していない青葉に対して「恨めし」という強い負の感情を抱くのにもかかわらず、なぜ「秋山吾は」と言い切れるのか?
ちなみに、万葉集には、「〜し恨めし」という表現が出てくる歌が、他に三首ある。
ひさかたの天つ印と水無川隔てて置きし神代し恨めし
巻十 2007
【意訳】
天上のランドマークとして、水の流れない天の川を、私たち(織姫と彦星)の間に置いた神話の時代が恨めしい! 夫婦なのに会えないとか、ありえない!
(前略)
乾坤の 神し恨めし 草まくら この旅のけに 妻離くべしや
巻十三 3346
【意訳】
この天地の神が恨めしい。旅の途中で妻と死別させられるなんて、ありえない!
無耳の池し恨めし吾妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ
巻十六 3788
【意訳】
耳無しの池がめちゃくちゃ恨めしい!
彼女が身投げしにきたら、水なんか干上がればいいものを!
2007は、夫婦を引き裂く天の川が設置された「神代」を、3346は、妻との死別の運命をもたらした神を、3788は、愛する女性を水死させた池を、それぞれ強烈に恨めしがっている。
いずれも愛する者との別離を痛切に嘆いているわけで、色づいていない青葉を取らずに置いて嘆くのとは、どう考えても「恨めし」の深刻度が違う。
では、額田王が「恨めし」く思っているのが、「葉っぱがまだ青いこと」でないとすれば、どうだろうか。
もみちをば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし
秋山の「葉」に対して、額田王は大きく心を揺らしている。色づいていても、青いままでも、無関心ではいられないらしい。
秋の美しさは、ある意味、有終の美でもある。
冬に向かって、あらゆる命が衰え、消えていく。
額田王は、終わりの見えている美を慈しみつつ、愛でていたのかもしれない。
それに対して、春山の「鳥」や「花」には全く心惹かれないらしく、見に行こうともしない。
彼女が春山に行かない理由として挙げている「山を茂み」「草深み」は、いずれも春の到来によってもたらされる、生命力の横溢そのものでもある。
自然の活力が増幅していく春先から初夏にかけては、人に当てはまるなら、青春真っ盛りの時期である。
そんな季節を忌避するということは…
額田王は、枯れ専だったのかもしれない。
【だいぶ怪しい妄想入り意訳】
帝と鎌足さんに、春の山と秋の山を比べて、どっちが素敵か決めてくれって頼まれたんだけど…
美的感覚なんて人それぞれだし、私の好みは大抵の人と違うから参考になりませんよーって言ったんだけど、それでもいいからお前がジャッジしろって、押し切られちゃったのよ。
だからまあ、好き勝手言わせてもらうことにしたんだけど。
正直言って私、春って嫌いなのよね。
冬の間ずっと閉じ込められてた連中が、あったかくなると、解き放たれたーって感じで、一気に出てくるじゃない。
あの浮かれて節操のない感じが、ほんと、鬱陶しいったらないわ。
ああ、鳥とか花とかが賑やかになるのは、別にいいのよ。彼らは自然の摂理で動いてるわけだしね。
うんざりなのは、人間。
春山で花見しようぜーなんて、あからさまにナンパしてくる奴が多いけど、「わたくし、草深い山道は、苦手ですの」って、全部断ってる。
春だからって、みんながみんな盛っちゃってるわけじゃないんだから、巻き込まないでほしいわね。
この際だから言っちゃうけど、元気いっぱいの若い男って、苦手だわ。精力がムンムンしすぎてて圧が強いっていうか、身勝手というか、恋愛しててもこっちが振り回されるばっかりで、ちっとも楽しくないんだもの。
その点、うんと年上の男性はいいわね。お付き合いしてても配慮が深いし、がっついたところもないから安心できるし。
素敵なおじ様に紅葉狩りに誘われたら、どうするかって?
そんなの行くに決まってるじゃない!
山道なんか、いくらでも歩いてやるわよ!
世の中の酢いも甘いも噛み分けてきた人の、枯れ落ちる寸前の壮絶な色気っていうのがあるでしょ?
喩えていうなら、燃え上がるような真紅の紅葉かしら。
晩秋の山奥で、はらりと落ちた紅葉を、そっと手にとって愛でるように、至高かつ天然の老紳士の妖艶な輝きを、私だけのオンリーワンにできたなら、きっちり萌え死ねる自信があるわ。
でもそんな男性、滅多にいないのよね。
あとちょっと歳をとったら理想のオジイサマになるかもっていう人なら、時々見かけるんだけど、もちろん手なんか出さないわ。私、青田買いはしない主義なの。
まあ、いろいろと残念ではあるのだけどね。
何が残念かって?
理想が特殊過ぎて、なかなかお相手に恵まれないことよ!
そんなわけで、秋山を推すわ。
異論?
認めてあげてもいいけど、かわりに将来有望なイケオジを紹介しなさい。
(_ _).。o○
本多平八郎による英訳は、だいぶ内容が改変されている。
No. 16
Though winter passes into springtime,
and birds that have kept silent sing;
though flowers that have long slept blow.
(the vernal woods, so dense with growth, offering no means for a maid to cull them,)
it is the autumn which delights our hearts: the golden maple leaves are fair to see.
LADY NUKADA
H.H.HONDA「THE MANYOSHU A NEW AND COMPLETE TRANSLATION 」北星堂書店 1967年
【語釈】
- pass into …(変化して)〜になる。
- Vernal …春の。
- dense…密集した。
- cull…摘む。摘み集める。
- fair…(文語)美しい。
原作にはいない「maid」が出現している。
額田王は、系譜については不明だけれど、「王」と呼ばれているので、皇族であると考えられている。
そんな高貴な生まれのレディ(LADY NUKADA)が、自ら鬱蒼たる山に分け入って花を摘んだりするのは不自然だというので、メイドさんの出番となったのだろうか。
【いろいろ誤魔化した日本語訳】
冬から春になり、沈黙していた鳥たちが歌い出すけれど…
長い眠りについていた花々が咲き乱れるけれど…
(春の森は生い茂った草が深いから、メイドはそれらを取りに行く手段がない)
私たちの心を喜ばせるのは秋です。
金色のもみじの葉は、目に麗しきもの。
……
例によって、AIにイラスト化してもらったところ…
なぜかメイドではなく、白馬が出現した。