湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「光る君へ」第6回 二人の才女

久々に視聴再開。

だいぶ溜め込んでしまった。

 

人物相関や系譜も含めて、なんとか年末までに消化したい。できるかどうか分からないけど。

 

(人の顔と名前を覚えるのが死ぬほど苦手なのに、この時代、似たような藤原さんが多すぎる…)

 

 

タイトルの「二人の才女」は、紫式部(まひろ)と清少納言のことだったようだ。

 

道長の兄である藤原道隆が催した漢詩の会に、まひろの父である藤原為時が招かれる。

 

為時は、息子の惟規を同伴しようとするけれど、漢詩が苦手な惟規は全力で拒否。かわりにまひろが同行することを申し出る。

 

漢詩の会には、清原元輔と、娘のききょう(清少納言)も招かれていた。

 

公達の漢詩が読み上げられると、主催者の道隆は藤原公任の詩を褒め称えてから、まひろに感想を求める。

 

まひろが、公任の詩を白楽天のようだと評すると、ききょうはそれを否定し、むしろ白楽天の親友である元微之(げんびし)の作風ようだと反論する。

 

「そうは思いませんか?」と、挑戦的に問いかけるききょうに対し、まひろは無反応で流す。

 

同じように学者の娘で、漢文や歴史に親しんで育っていても、性格は水と油ほどに相容れない……そんな印象を残すエピソードだった。

 

ききょう(清少納言)との出会いが、まひろの心にどんな思いを残したのかは、今回のドラマの中では明確にされなかった。

 

今回、あえて二人の対決(?)を描いたのだから、このあとにも、史実としては残されていない二大作家の絡みがあるのだろうか。

 

(あったとしても、もう放映終わっちゃてるかな…)

 

 

(_ _).。o○

 

 

今回の冒頭で、まひろは、最愛の母を殺したのが道長の兄道兼であることを道長に告白したのち、慕っていた道長と距離を置くために、自分の命に使命を持たせようと考える。

 

父の為時が右大臣兼家を拠り所にしている限り、道長との縁を断つことは難しい。

 

ならば、兼家と対立している左大臣源雅信との繋がりを深くすればいいのではないか。

 

そう考えたまひろは、雅信の娘である倫子のサロンに引き続き通うことを決意する。その倫子に、道長の婿入りの話が持ち上がりつつあることも知らずに…。

 

(_ _).。o○

 

道長の未来の舅である左大臣源雅信は、宇多天皇の孫で、父親は敦実親王、母親は藤原時平の娘だという。

 

時平は、兼家の祖父である藤原忠平の兄。

そして、時平と忠平は藤原基経の息子。

 

つまり雅信と兼家は、どちらも藤原基経のひ孫であり、又従兄弟、ハトコの関係、ということになる。

 

源雅信には妻が五人以上いたらしいけれども、道長の妻となった倫子の生母は、正室の藤原穆子(ふじわらのぼくし/あつこ)で、この人も藤原北家の出身。

 

家系的に、源雅信はかなり藤原北家寄りと言えそうに思う。

 

けれど、もしも雅信が、自分の娘を入内させて、兼家たちと未来の外戚の座を争っていたなら、菅原道真源高明のように、陥れられて左遷されていたのかもしれない。

 

(_ _).。o○

 

ちょっと親子関係の復習…

 

宇多天皇──醍醐天皇──朱雀天皇&村上天皇

 

宇多天皇は息子の醍醐天皇に攘夷したあとも政治に関わり続けたため、父と子はとんでもなく不仲だったらしい。

 

醍醐天皇は、藤原時平の讒言を受けて、宇多上皇に重用されていた菅原道真太宰府に追いやって死なせてしまう(901年、昌泰の変)。

 

朱雀天皇村上天皇の母親は、時平の娘、穏子。

 

けれども時平は39歳で早死にしてしまい、醍醐天皇が穏子との間に儲けた東宮も早世。

 

おまけに清涼殿に雷が落ちて、何人もの公卿や役人が焼死した(930年)

 

立て続けに起きた凶事は、亡くなった菅原道真の祟りだと言われ、ストレスで身体を壊した醍醐天皇は譲位し、その後まもなく崩御する。

 

その後に、8歳で即位した朱雀天皇は病弱で子どもに恵まれず、在位中には平将門藤原純友が反乱を起こし、富士山噴火に大地震まで起きるという散々な不運続きだったため、24歳で弟に攘夷する。(946年)

 

兄の後に即位した村上天皇は、関白の藤原忠平が亡くなったあと、摂関を置かずに親政を行った……ことになっているけれど、現実には忠平の息子である実頼や師輔に実権を握られていて、兄上皇や母親の藤原穏子までもが政治に関わってこようとするなど、目の上のたんこぶだらけだったようだ。

 

たんこぶストレスのせいか、村上天皇は在位のまま42歳で崩御。(967年)

 

 

村上天皇──冷泉天皇&円融天皇

 

冷泉天皇円融天皇の母は、藤原師輔の女、安子。

 

安子は村上天皇との間に7人の子をもうけたけれど、最後のお産の直後に、37歳で崩御している。

 

子だくさんであるのだから、よほど村上天皇との夫婦仲が良かったのだろうと思いたいところだけれども、「大鏡」には、弘徽殿に住まう安子が、帝の寵愛を受ける藤壺の女御に嫉妬して、土器の破片をぶん投げたり、自分のところに寄り付かなくなった帝を無理やり呼びつけた上、逃げようとする帝の着物をつかんで離さなかったりと、苛烈な振る舞いが多かったことが記されている。

 

村上天皇は、親政を妨害する目の上たんこぶ軍団だけでなく、恐妻ストレスも抱えていたことになる。

 

恐妻安子は、兼家と同じ母親を持つ姉でもある。

 

兼家と臨終間際までバチバチに争っていた兄の兼通も、安子と同じ母から生まれている。

たぶん、よく似たきょうだいだったのだろう。

 

安子や兼家たちの母である藤原盛子がどんな女性だったのかは分からないけれど、師輔との間に八人もの子を産んでいるので、安子の多産は母譲りなのかもしれない。

 

冷泉天皇──花山天皇&三条天皇

 

冷泉天皇は、怪我をするのも構わずに蹴鞠にこだわり、あたり構わず大声で歌を歌うなどの奇行が多かったという。

 

その息子の花山天皇にも、だいぶご乱心な逸話が多いようで、「光る君へ」でも、幼少期のクソ餓鬼っぷりや、度の過ぎた好色っぷりを仄めかす場面があった。

 

花山天皇は、寵愛する弘徽殿の女御、忯子が急死(985年)したことを深く悲しみ、天皇を退位させたい藤原さんたちに唆されて、衝動的に出家してしまう。(986年)

 

三条天皇には奇行の逸話が見当たらないようだけど、嫁の問題で道長と不仲になり、眼病を患ったのを理由に道長に譲位を迫られ、太上天皇になった翌年、42歳で崩御した。

 

(_ _).。o○

 

系譜がややこしくて、なかなか覚えきれないので、印象的なエピソードに紐付けしながら、また改めて整理しようと思う。

 

 

ドラマガイド、ちょっと欲しいかも…