湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

藤原氏集め日誌(1) 藤原顕光

スマホアプリ「藤原氏集め」を拠り所にしつつ、各時代の藤原さんについて、少しづつ書き溜めてみようと思う。

 

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第一回目は、藤原顕光さん(北家)。

 

いきなり藤原顕光と言われても、歴史音痴の私は「誰だっけ?」と首をかしげるしかないのだけど、藤原兼通の息子と聞けば、時代くらいは思い浮かぶ。

 

兼通は兼家の兄だけれど、いろいろあって弟のほうが早く昇進したために兄弟仲が険悪になり、亡くなる間際まで、陰険な権力争いをしていたはず。

 

高校の頃、「大鏡」で二人の仲の悪さを赤裸々に記した箇所を読んで覚えていたのだけど、そこには息子顕光の話は出てこなかったから、私にとっては影の薄い未知の人物のままだった。

 

ずっと視聴をサボっている大河ドラマ「光る君へ」では、藤原顕光の出番があったようで、Xでつぶやかれる頻度が増えているようだ。

 

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道長の一回り年長の公卿(くぎょう)。儀式での失敗など、その無能ぶりはしばしば嘲笑されていた。しかし、競争相手である公卿たちが早く亡くなったことで、政治の中枢に残る。

 

(「光る君へ」公式ホームページより)

 

公式で書かれるほどの無能とは…(´・ω・`)。

 

亭主に、顕光ってどんな人だったのかと聞いてみたら、

 

「『そこでやらかすか?!』というところで、必ずやらかす人」

 

とのこと。ドラマ的には美味しい人物かもしれない。

 

アプリ「藤原氏集め」の顕光さんは、顔にラクガキされて情けない顔で微笑みながら、人魂を背負っているという、奇妙なイラストになっている。

 

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顔のラクガキは、いろいろやらかして無能と罵られたことを表しているのだろうか。

 

人魂は、たぶん道長一家を祟ったという評判のせいだろう。

 

1021年に顕光が亡くなってから、道長の娘たちが、なぜか次々と亡くなっている。

 

顕光の娘を押しのけて敦明親王の妃となった寛子は、27歳で薨去。(1025年)

 

 敦良親王後朱雀天皇)の東宮妃だった嬉子は、出産2日後に、19歳で薨去。(1025年)

 

三条天皇の皇后だった 妍子は、33歳で病死。(1027年)

 

このため顕光は、悪霊左府と呼ばれ、恐れられるようになったのだとか。

 

栄花物語」に悪霊としての活躍が書き残されているらしいので、そのうち読んでみたい。

 

(_ _).。o○

 

Wikipediaで「藤原顕光」の記事の中に、私の記憶に残っている話を見つけた。

 

同年(996年)に顕光は娘・元子を一条天皇に女御として入内させる。

 

中宮の定子は先に失脚した伊周の妹であり、しかも、道長の娘は幼くまだ入内していなかった。

 

この状況で元子が第一皇子を産めば顕光は天皇外戚となりうる可能性があった。

 

そして、翌長徳3年(997年)に元子は懐妊する。

 

元子は堀川第に里下りして出産に備え、顕光は僧侶を集めて男子出産を加持祈祷させた。

 

ところが、元子は産み月になっても一向に産気づかなかった。そこで顕光は元子を寺へ連れてゆき安産の祈祷をさせると、ようやく産気づくが不思議に水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。この騒ぎで顕光と元子は世間の嘲笑を受けた。

 

 

入内して懐妊したのに水しか生まれなかったという強烈なエピソードを持つ女御が、藤原顕光の娘だったというのを、これを読んで初めて知った。

 

この話も「栄花物語」に書かれているものだという。私は読んでいないけれど、亭主が学生時代に「栄花物語」で論文を書いているので、たぶん話を聞かされたのだと思う。

 

元子は想像妊娠だったとされているようだけれども、周囲が疑いなく臨月だと思うほどお腹が膨らみ、破水のように水が流れ出たというのだから、もはや病気のレベルだと思う。

 

結局、元子は一条天皇との間の子を産むことなく、長く実家で暮らすことになったのだという。

 

顕光は、のちに元子の髪を切って屋敷から追い出すというDV事件を起こすのだけど、それについては、また別の機会に。