ふと気になって、「語るに落ちる」という慣用表現を辞書で調べてみた。
問うに落ちずに語るに落ちる
こちらから聞いても白状せず、自分から思わず本当の事を言う
不勉強にして、「問うに落ちずに」の部分があることを、この年になるまで知らなかった。
そのため、意味の理解も辞書の記述からズレていた。
私としては、質問されるかどうかに関わらず、「うっかり、自分に不利なことを言ってしまう」あるいは「正しいつもりで間違ったことを言って、無知をさらし、恥をかく」というような意味だと思っていた。
なぜこの表現が気になったのかというと、X(旧Twitter)で、まさに私の意味理解に沿った「語るに落ちる」状況と思われる、興味深い発言を見かけたからだ。
発言した方を批判する意図はないので、該当発言をそのまま引用せず、話の流れを説明してみる。
数日前に大規模な太陽フレアが起きて、日本の各地でオーロラが観測されたという。
A県にお住まいの方が、地元でオーロラ観測できたことに感激して、赤く光る夜空の写真を掲載したところ、批判のコメントがついた。
赤いオーロラは電磁波障害などを引き起こすものだから、ぬか喜びしている場合ではない、のだそうだ。
(こういう場合に「ぬか喜び」という表現がふさわしいのかどうか、引っ掛かりを覚えるけれども、今回の本筋とは関係がないので置いておく)
それに対して、A県の方が、人生で二度とないような稀有な体験なのだから、見ることのできなかった外野は黙っていなさいというような内容のことを、罵倒モードで言い返した。
すると、批判した方は、自分は海外旅行でオーロラを見たことがある経験者である、と返答した。
A県の方は、批判した方が見たという海外のオーロラの写真を見せて欲しいというコメントを返したけれども反応はなく、お二人の会話はそこで途切れている。
太陽フレアとオーロラについて詳しくないので、亭主にちょっと聞いてみた。
「太陽フレアが起きると、地球にどんな影響があるの?」
「電磁波とか、高エネルギーの粒子とかが、大量に飛んで来るな」
「それって、太陽フレアが起きてから8分くらい?」
「8分は光の速度やな。エネルギーの粒子は物質やから、もっと遅い」
「光よりどれくらい遅いの?」
「それは調べろ。まあ早くて11時間とか、そのくらいちゃうか」
「物質なのに半日とかで飛んでくるんだ。早いね」
「うむ。その高エネルギー粒子が北極や南極に引き寄せられていって、大気とぶつかると、オーロラが発生する」
「ふーん。なら、オーロラが見えている時点で、電磁波障害とかが起きてもおかしくないってこと?」
「そうなる」
「で、今回は日本で何か障害あったのかな」
「今のところ、聞かんな」
「それはよかった。ところで、オーロラは電磁波障害なんかと関係するから、眺めて喜ぶべきではないっていう意見があるみたいだけど、どう思う?」
「磁気嵐は常時観測されてるから、ほんとにヤバかったら、アラート出すやろ」
「そうなんだ」
気になったので、「宇宙天気予報」というサイトを見てみた。
このサイトは、「 国立研究開発法人 情報通信研究機構 電磁波研究所 宇宙環境研究室」が運営している、宇宙天気予報専門の情報配信サービスなのだそうだ。
ここに、今回の大規模太陽フレアについての情報をまとめたページがあったので、読んでみた。
日本時間5月8日(水)10時41分以降、現在までに、太陽黒点群13663および13664で大規模な太陽フレア8回を含む複数回の太陽フレアの発生を確認しました。この現象に伴い、太陽コロナガスが地球方向へ放出したことが複数回確認されました。
コロナガスの第1波は、日本時間5月11日(土)の1時半頃に地球周辺に到来しました。この後も、順次通過することが予測されています。この影響により、地球周辺の宇宙環境が数日間大きく乱れる可能性があります。
そのため、人工衛星の障害やGPSを用いた高精度測位の誤差の増大、短波通信障害などが生じる恐れがあります。なお、地上・航空の人体被ばくや、通常の携帯電話の通信・測位には影響はありません。
今後数日間は、この非常に活発な黒点群による同規模の太陽フレア及び関連現象の発生に注意が必要です。
太陽フレアが、様々な障害や災害を引き起こす可能性があるということは理解した。
だから、太陽フレアによって生じるオーロラを、災害に繋がる不吉なものとして忌避したり、恐れたりすることを推奨するという考え方を否定することはできない。
そもそも太陽って、あと五十億年くらいで寿命がきて、大爆発して終わるんじゃなかったか。
そうなる前に、太陽はどんどん膨張して地球を干からびさせ、挙句に飲み込んでしまうらしい。
となると、太陽の存在自体が人類の未来ににとって甚だしく不吉なわけだから、初日の出を眺めに行って喜ぶなんてどうかしている、神経を疑う、などという批判が起きてもおかしくないことになる。
いまのところ、太陽を不吉がって嫌う人なんて、日本にはあまりいないだろうし、オーロラを恐れて忌避したりする人も、あまり見かけない。
オーロラに感動するA県の方に批判コメントをしていた方も、他人の感動に水を差すと思われたのか、だいぶ叩かれていたようだ。
たとえ叩かれても、人類はオーロラを見て安閑としているべきではないという信念を持ち続け、敢えて空気を読まずに感動に水を差し、言いにくいことを公で発言するのは、それはそれで筋の通ったことだと思う。
けれども、「見れなかった外野は黙れ」と言われて、「自分も海外旅行で見たことがある経験者である」と返してしまっては、いろいろと台無しなのではなかろうか。
もちろん、海外旅行でオーロラを目撃した時にも、電磁波障害や災害の襲来を憂えておられたのかもしれない。
けれども、売り言葉に買い言葉よろしく、同じ土俵でマウントを奪還しようとしたら、「オーロラを海外で見た経験を誇りたい(残念な)人」みたいになってしまって、最初の批判コメントにあった反骨精神的なものは何だったのかと言いたくなる。
そうした残念さを踏まえて、「語るに落ちる」という慣用表現を当てたくなったのだけど、辞書を引いてみて、この事例には当てはまらないかもしれないと思った。だって、「問うに落ち」なかったわけでも、知られないように秘めていた何かを白状したわけでもないのだから。
言い換えるなら、「馬脚を表す」「メッキが剥がれる」「地金が出る」あたりかと思うけれど、そこまで本性がダメだと決めつけたいわけでもない。「言わぬが花」くらいだろうか。いや、しっくりこない。
なんかいい表現はないものか。
(_ _).。o○
以下は蛇足。
上のXの対話を見ていて思い出したことを買いておく。
昭和の田舎の小学生(低学年)だったころ、クラスの男子が自分の持ち物や経験をひけらかしてマウントを取り合うというのを、よくやっていた。
「俺きのうアイス二個食ったぞ」
「たったの二個? 俺なんか三個食ったぞ」
「どーせ安いのだろ? 俺が食ったのは、でっかくてすごいやつだから。ケーキみたいなやつだもんね」
「俺が食ったのだって、すごいぞ。三段になってんだから」
「嘘つけ。そんなアイスあるわけないじゃん」
「嘘じゃありませーん。ほんとにありまーす」
「だったら見せてみろよ」
「食べちゃったから見せられませーん」
普通のバニラアイスのカップが一個20円くらいだったころ(たぶん昭和44年前後)、一個100円のカップアイスは、子どもの目にはホールケーキ並に豪華に見えた。
私の記憶の中にある20円のカップアイスは、紙の容器に赤と緑の水玉模様が印刷されていた。
Google検索で写真を探してみたら、昭和40年代のアイスの写真をXに投稿している方がいた。
https://x.com/kurichan46/status/629251783450202112?s=46&t=fqJFNfD49HT39-kWoxe4kg
そう、これだった。懐かしい…
一個100円の豪華なアイスクリームは、食べたことがなかったので、記憶がおぼろだけれど、それと思われる写真をXで見つけた。
https://x.com/seikafoods_jp/status/1407500885882589184?s=46&t=fqJFNfD49HT39-kWoxe4kg
写真の右上が、100円の豪華アイス。
ただ、私が豪華100円カップアイスを目撃したのは、昭和43年ごろの、岩手県盛岡市内の駄菓子屋、もしくは三陸海岸よりの町の小売店だったはずで、鹿児島にあるセイカ食品の工場からカップアイスを仕入れていたかどうかは分からない。