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父忠盛(中井貴一)への反抗心と、義理の母宗子(和久井映見)への気まずい思いから、家を飛び出した清盛(松山ケンイチ)は、自分の郎党を従えて、西海で用心棒まがいのことをしていた。
実父である故白河法皇(伊藤四郎)への強い憎悪を抱える清盛は、鳥羽法皇(三上博史)の世になってからも、皇家に飼われる犬にだけはなるまいと思い、無頼な暮らしを楽しんでいた。
けれども、海賊を倒して取り戻した米を貧民に分け与えるという、清盛たちの義賊のような振る舞いは、帰って海賊たちを刺激して、庶民への被害を増やす結果となっていた。
そのことを父忠盛に指摘されたばかりか、西海でも平家一門に密かに見守られていたことを知った清盛は、自分の存在意義を見失ってしまう。
父忠盛は平家の血を持たない清盛を、平家になくてはならない嫡男だと言い切り、義母の宗子も、実子の家盛を差し置いて、清盛を我が子であると断言する。
自分の無力さを悟った清盛には、両親の思いの深さを受け止めることができず、父の家から逃げ出した。
迷子の子どものように打ちひしがれた清盛を救いあげたのは、源氏の嫡男である源義朝(玉木宏)だった。
三年前、白河法皇の御前で、荒々しい殺気を発する舞を披露した清盛に一目惚れした義朝は、ひたすらに武芸を磨きながら、清盛を自分に振り向かせる機会を狙っていたらしい。
馬の早駆けの勝負を義朝に挑まれた清盛は、初めは身も蓋もなく義朝を拒絶する。
けれども、源氏の嫡男だという義朝は、平氏嫡男という立場を持て余していた清盛の心に、何らかの引っかかりを残す存在だったのだろう。
傷心を抱えて家を飛び出した清盛は、野原で鍛錬中の義朝の元に押しかけて、自分から早駆けの勝負を挑んだものの、落馬して負けてしまう。
地に伏して、
「俺は、どうしようもない男じゃ! 俺など要らぬ!」
と泣き叫ぶ清盛をじっと見つめていた義朝は、敢えて散々な言葉で清盛を侮辱して挑発する。
そして、武士が皇家に飼われるのではなく、武士が皇家を守ってやっているのだと言い、いずれ立場を逆転させるのだと断言してみせる。
源氏の嫡男というライバルと、武士の時代を到来させるという熱い野望は、泣いていた清盛をあっさり立ち直らせてしまう。
自分の言葉によって、清盛の目が光を取り戻したのを見届けた義朝は、清盛の呼び止める声に振り返ることなく、馬で駆け去っていく。
このとき義朝が振り返らなかった理由は、片思いの相手を振り向かせた喜びで完全にやに下がっていただらし無い顔を、清盛に見られるわけには行かなかったからだ、みたいなことを、息子の頼朝がナレーションで暴露していたけど……
義朝は、そんなことを幼い頃に死に別れた息子にしゃべっていたのだろうか。
(_ _).。o○
若い頃の清盛が、西海で義賊まがいのことをやっていたという史実があるのかどうかは分からないけれども、忠盛の父正盛(中村敦夫)は西国の受領だったし、忠盛も伯耆守(鳥取県中・南部)や備前守(岡山・香川・兵庫にまたがっている地域)に任じられているので、平家一門が西国に地縁や利権があったのは確かだろう。
平安時代の海賊というと、十世紀前半の藤原純友の反乱を思い出すけれども、その後も瀬戸内海の海運は海賊との戦いだったらしい。
ドラマでは、海賊たちは野蛮な犯罪者の集団として描かれていたけど、彼らを統括するのは制海権を持った豪族で、源平の合戦などでも軍事集団として参戦していたという。
そういう組織力のある海賊たちと、無頼を気取っていた清盛たちでは、どうしたって勝負にはならなかっただろう。忠盛は清盛を守るために、西海での平氏の利権を使って、地元の海賊勢力と駆け引きすることもあったのかもしれない。
何をやっても、父忠盛の掌の上で守られていると知った清盛の自己嫌悪の深度は計り知れないけれども、そういう父の政治力に間近に触れることが、のちに大政治家へと成長する基盤となったのかもしれない。
(_ _).。o○
毎度蛇足の歴メシコーナー。
相変わらず小汚い平安京で、スルメ(イカの干物)らしきものが売られているシーンがあった。
イカは古くから朝廷に納められていたようで、「延喜式」に次のような記事がある。
延喜式 第二十三 民部
交易雑物
若狭国 烏賊三百斤
若狭国は福井県。イカをそこから都にナマで輸送したら確実に腐るだろうから、干物や塩漬けなどに加工していただろう。
平安時代時代の人たちは、スルメをどうやって食べていたのか。
そのまま割いて食べるだけでなく、水で戻したり、汁物に入れたりはしなかったのだろうか。
ネット情報によると、スルメを重曹を入れた水で戻すと、生イカみたいになるらしい(「ためしてガッテン」で紹介されたのだとか)。
【スルメの戻し方】ためしてガッテンで話題の戻しスルメの作り方【重曹で生いか風に!】 - YouTube
なんか、美味しそうだ…。
「古事類縁」データベースで「烏賊」を検索してみたら、「四條家法式」という本に、
御吸物〈烏賊、鹽指、
という記事があった。
四条家というのは、藤原北家魚名流の嫡流で、後白河、後鳥羽の時代には重用されて栄えていたものの、色々あって、戦国時代には包丁道の家になったらしい。
「四条家法式」は、多分その四条家の料理の本だと思うのだけど、書かれた時代が分からない。四条家が包丁道の家になるのは鎌倉時代より後だろうから、ここに書かれているイカの「御吸物」も、平安時代に食べられていたかどうかは不明。
「鹽指」というのも謎だ。人差し指のことを「塩なめ指」ということがあったらしいけど、関係あるのかどうか。
まさか人差し指をイカと一緒に調理するはずもないから、塩の分量を指示するものなのかも。
分からないことばかりで終わってしまって、まさに蛇足という感じだけど、乾物の調理法は気になるので、気長に情報を探してみようと思う。