湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「どうする家康」(1)どうする桶狭間

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」第一回「どうする桶狭間」を見はじめたのだけど…

 

ついこの間まで、平安末〜鎌倉初期にどっぷり浸かっていたので、戦国時代に頭がついていけない。

 

北条の人たちは、どこに消えてしまったんだろう……

 

泰時、元気にしてるのかな……

 

(´・ω・`)

 

などと、妙な感傷にたゆたっていても始まらないので、歴史音痴なりに、今年も大河ドラマを楽しもうと思う。

 

 

のちに徳川家康となる竹千代(松本潤)は、今川氏の人質として駿府に置かれ、のびのびと卑屈に育っていた。

 

武芸にも学問にも全くやる気を見せず、今川義元の嫡男氏真との槍の試合では清々しいほどの負けっぷりを見せ、三河家の家臣たちを落胆させる。

 

木彫りのフィギュアをたくさん作って空想の世界で遊んでばかりいて、家臣の石川数正松重豊)に恐ろしい顔でドヤされている。

 

弱虫の怖がりで、しょっちゅうお腹も壊しているらしい。

 

そんな様子を見ていて、「のび太くん」を連想した人は、きっと私の他にもいると思う。

 

 

 

ついでに、石川数正はドSタイプのドラえもんで、今川氏真スネ夫本多忠勝織田信長はダブルでジャイアン

 

家康のび太の人生、人付き合いの試練がキツすぎる…

 

(_ _).。o○

 

人質であるとはいえ、竹千代の駿府での生活はそれなりの待遇で、衣食に不自由するようなことはないようだった。

 

そのため、墓参りで故郷の三河・岡崎に帰省を許されたときには、城下町のみすぼらしさや、家臣たちの暮らしの貧しさ、文化の落差に、竹千代は愕然とすることになる。

 

先日から見始めた大河ドラマ平清盛」の平安京の小汚さにはだいぶ慄いたけれども、岡崎城下の徹底した貧相な作り込みもなかなか凄まじかった。

 

荒地にしか見えない道のほとりに、壊れた板葺きのあばら屋があるだけで、経済が回っている気配が微塵もなかったけど、あれで住民はどうやって暮らしていたんだろうか。

 

ちょっと大きな茅葺き屋根の家も見えたけど、数えるほどしかないようだったし。

 

三河の家臣と家康の会話で、今川氏に税金を搾り取られているという話が出ていたけれども、久々に岡崎を訪れた家臣たちが町並みの貧しさを憂いている様子がなかったから、以前からずっと同じような感じだったのかもしれない。

 

故郷の人々は、帰省した竹千代の瑞々しい若武者ぶりを見て、源頼朝が降臨したようだと言って感動していた。

 

伊豆に流されていた頼朝が征夷大将軍になったように、人質の竹千代が、岡崎城に戻って松平家を盛り立ててくれる日が来ることを、家臣達は夢見ているのだろう。

 

その夢がとんでもなく上方修正されて叶うことになるなど、この頃には誰も予想したかっただろうけど。

 

(_ _).。o○

 

 

天文24年(1555年)、竹千代は12歳で元服して次郎三郎元信となる(のちに元康と名を改める)。

 

嫡男なのに、なんで次郎三郎なのかと思ったら、父親の松平広忠の通称も次郎三郎だったらしい。(とWikipediaに書いてあった)

 

父広忠は、三河織田氏から守るために今川氏に助力を願い、見返りとして、数え年で6歳の竹千代(家康)を人質に送る約束をしたという。(1545年)

 

ところが、戸田康光という三河の武将が裏切ったとかで、竹千代は尾張の織田側に送られてしまった。

 

その後広忠は、今川の加勢を得て織田勢に勝利し、捕虜にした織田信広と竹千代を交換する。竹千代は、当初の約束通りに今川に送られる。(1548年)

 

その翌年、松平広忠は死去。享年24歳。

竹千代が次郎三郎を名乗ったのは、若くして亡くなった父の遺志を継ぐようにという、本人や家臣たちの気持ちがあったからかもしれない。

 

でも、父の代からどうして次郎三郎だったんだろう。謎が深い。

 

(_ _).。o○

 

元服後、家康は、フィギュアのごっこ遊びで意気投合していた瀬名(有村架純)と結婚する。

 

ドラマでは、今川義元の息子の氏真(溝端淳平)も、瀬名を側室にと望んでいたものの、家康との勝負に負けたために、義元に命じられて瀬名を家康に譲ることになる。

 

好きな女性のために本気を出した家康は、見違えるほど強くてカッコよかった。

 

瀬名は、今川氏の筆頭家老である関口親永(渡部篤郎)の娘で、母親の巴(真矢ミキ)は今川家の出身だという。

 

大切な身内の娘である瀬名との結婚を認めたのだから、今川義元野村萬斎)は、若い家康の伸び代に大きな期待を持っていたのだと思う。

 

(_ _).。o○

 

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いが起きる。

 

その時家康は17歳で、嫡男の信康は1歳、妻の瀬名のお腹には亀姫がいた。

 

現代だったら高校に通っている年頃の少年が、幼い我が子と身重の愛妻を残して、戦に出陣する。いろんな意味で過酷な人生だと思う。

 

出陣を前にして、今川義元は自ら謡(うたい)と舞を披露する。

 

「万歳千秋(ばんぜいせんしゅう)」と、長寿を祈念して謡う義元は、戦に勝利して今川家の繁栄が続くことを、疑っていなかったのだろう。

 

家康たちは、先鋒として、守りの堅い織田勢の丸根砦を突破して、敵中で孤立している大高城に兵糧を届ける役を命じられる。

 

三河の家臣たちが、今川の捨て駒同然に使われることを悔しがっているところに、今川義元が陣中見舞いにやってくる。

 

義元は、覇道の織田信長に対して、王道で打ち勝ち、戦乱の世を終わらせると断言する。

 

さらに家康に金陀美具足(きんだみぐそく)と呼ばれる豪華な鎧兜を授けて激励する。

 

死地に送られることに動揺していた家康も、義元の思いを受け止めて深く感謝し、腹をくくる。

 

けれども、戦場で光り輝く鎧なんかを着ていたら、目立ってしょうがない。味方を鼓舞できるかもしれないけれども、敵にも狙い撃ちされかねない。

 

今川義元にとっての王道には、敵の目を欺くとか迷彩とかいう発想は含まれていなかったのかもしれない。

 

まあ普通の大名は、大兵力を持っているときに、自ら敵陣に飛び込んで血路を開いたりはしないだろうから、仕方がないのかもしれないけれども。

 

そして、普通でない織田信長みたいな大名がいたから、本陣で守られていた今川義元が、奇襲で討たれることにもなったのだろう。

 

(_ _).。o○

 

家康たち三河勢は、苦戦の末に丸根砦を突破して、大高城の鵜殿長照(野間口徹)の元に無事に兵糧と届ける。

 

けれども、後から来るはずの今川義元の軍勢が、いつまでたってもやってこない。

 

不吉な雨に振り込められている家康たちの元に、物見に出ていた兵が戻り、今川の軍勢は総崩れ、今川義元が討ち死にしたと伝える。

 

その知らせは、ここまでかろうじて恐怖と戦って切り抜けてきた家康の心を、ぽっきりと折るに足るものだった。

 

大高城にいた今川の兵達が逃亡し始めるのと同時に、家康も城から逃げ出し、家臣の目を掻い潜って、城の近くの浜辺にたどり着く。

 

けれども馬で追ってきた本多平八郎忠勝にボコボコにされ、「恥ずかしくないのか!」と罵倒された上で連れ戻される。

 

けれどもそこへ、約二千の織田軍が押し寄せてきたという知らせが入る。

 

信長(岡田准一)の名前を聞いて、ガタガタと震えだし、パニックに陥る家康。

 

その恐怖は、丸根砦を強行突破するときの恐ろしさをはるかに超えているように見えた。

 

そして馬を走らせながら、槍にぶら下げた今川義元の首を地面に投げつけ、

 

「待ってろよ竹千代、俺の白ウサギ」

 

と笑いながら囁く信長は、完全にイッちゃってる人だった。

 

危うし家康!

 

でも、危うさの方向性が、ちょっと良く分からない。

 

俺の白ウサギって……

信長にとって、家康は愛玩用の所有物(ペット)なのか。

 

家康の回想シーンで、信長は「食ってやる!」と言って家康に食いついていた。ということは、食用でもあるのか。

 

織田信長、たしか男色の人でもあったはず。

 

家康、来週、何らかの意味で、信長に食べられちゃうのだろうか……。

 

そういえば家康は、木彫りのウサギをこしらえていた。あれは自分を投影したフィギュアだったのだろうか。瀬名に取られちゃってたけど。

 

(_ _).。o○

 

「鎌倉殿の13人」に引き続き、「どうする家康」でも、蛇足の歴メシネタコーナーをやろうと思う。

 

家康が三河の岡崎に帰省した時、家臣たちが歓迎の宴を開いてもてなしていた。

 

串に刺した焼き魚。

芋や大根を煮込んだ、煮汁の真っ黒な鍋。

味噌田楽の味噌も、やけに黒々としていた。

 

Wikipediaの「味噌田楽」のページに次のような記事があった。

 

永禄年間(1558年-1570年)頃には焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行、はじめは唐辛子味噌だったものがのち調味味噌となる。

 

桶狭間の戦いが1560年だから、ちょうど永禄年間に当たる。三河の人々も、味噌田楽をご馳走として楽しんでいたのかもしれない。

 

ドラマの家康は、家臣たちが嬉しそうに食べる味噌田楽には目もくれず、黒い煮物を勧められても、怪しがって食べようとしなかった。

 

あのどす黒い煮汁も、味噌なのだろうか。

 

そういえば、八丁味噌は愛知県の産物だったはず。

 

と思って調べたら、岡崎城から西へ八丁(870メートルほど)離れた八丁村で作られたから、八丁味噌というらしい。

 

歴史上の家康は、岡崎の味噌を愛好して、江戸にわざわざ取り寄せて、毎日食べていたんだとか。

 

ドラマの家康も、いずれあの黒い味噌を好きになるのだろうか。

 

家康公の愛した三河の味噌【~カクキュー「八丁味噌の郷」から~】 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now