末っ子の日本史受験対策という名目で、NHKアーカイブスなどのコンテンツをKindle fireで鑑賞する日々が続いている。
私も末っ子もADHDなので、長時間テレビ番組を見ようとしても、あっという間(ほぼ数分以内)に飽きてしまって見続けられない、というか、画面の前に長く座っていられないという問題を抱えているのだけど、二人で盛大にツッコミを入れながら見ていると、飽きがこないので最後まで見ることができる。
もっとも末っ子は手元の端末で気になったことを次々と調べながら見ているし、私の方は食べたり飲んだり、余計なことまでしゃべったりして間を持たせているのだけど。
天平の頃の奈良の都を舞台に、橘諸兄をはじめとする古い貴族たちと、藤原氏との軋轢に巻き込まれながら生きる、吉備真備の人生の物語。
ドラマの語り部は、吉備真備の妹のユリという女性なのだけど、Wikipediaには、ユリ(吉備由利)は吉備真備の娘と書いてあった。どっちだったんだろう。
養老元年(717年)、遣唐使として唐に渡った吉備真備は、天平7年(735年)、胡散臭い僧の玄昉(げんぼう)とともに、嵐で難破しそうになりながらも、無事に帰国を果たす。
遭難の危機に怯え惑う吉備真備は、自分が乗っている船が沈むはずがないと言う玄昉の無根拠な自信に支えられて、嵐の夜を乗り越えたのだけど、これが二人の腐れ縁の始まりだった。
で、いつもの「山川日本史一問一答」。
【問】
遣唐使に従って唐に留学し、帰国後、橘諸兄政権で大きな地位を占めた人物を二人あげよ。
答…吉備真備・玄昉
胡散臭い玄昉も、真備と一緒に出世するらしい。
それはともかく、どうもこの玄昉の胡散臭さに見覚えがあると思ったら、「鎌倉殿の13人」の文覚と同じ、市川猿之助だった。なんだか玄昉が輪廻転生して文覚になったみたいで、ちょっと面白い。
(_ _).。o○
ドラマの真備は、まだ学生のような頼りない雰囲気を残していて、かなり若く見えたけれども、実際には帰国した時点で40歳くらいだったようだ。
18年間の留学生活で、史書や天文、音楽、兵学など、さまざまな分野の深い知識を身につけ、貴重な品々をも持ち帰った真備は、朝廷に高く評価され、低い身分から一気に昇進することになる。
真備はあまり出世には興味がなかったらしく、自身の境遇の変化に戸惑って及び腰になるけれども、権力者たちは有能な彼を放ってはおかなかった。
ドラマでは、吉備真備はまず藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の息子、不比等の孫)に目をつけられ、家に押しかけられていた。
その後、仲麻呂によって光明皇后と葛城王(橘諸兄)といった有力者たちに強引に引き合わされて、どちらからも気に入られてしまう。
さらに、光明皇后に願われて、彼女の娘の阿部内親王(のちの孝謙天皇)のしつけを頼まれて、家庭教師をすることになってしまう。
我儘娘だった内親王は、自分に対して断固たる態度で叱りつける真備に度肝を抜かれたものの、彼の筋の通った考え方に信頼を寄せ、やがて素直に思いのうちを語るようになっていく。
藤原不比等の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、吉備真備が帰国する6年前の729年に、目障りな存在だった長屋王に謀叛の濡れ衣を着せて一族を自害に追い込み(長屋王の変)、自分たちの妹である光明子を聖武天皇の皇后に立てたことで、強い権力を握っていた。
権力を自分たちで掌握して、唐のような中央集権国家を作りたい藤原四兄弟にとって、橘諸兄のように皇族から臣籍降下した高位貴族や、大伴家持のような有力豪族は、権力を分散させる邪魔物でしかなく、どうにかして排除したい存在だったようだ。
父の藤原武智麻呂の意を受けた仲麻呂は、才能ある吉備真備を自分の手駒にしようとして、あの手この手で勧誘するものの、吉備真備はうまくかわして、誘いに乗ろうとしない。
一方、吉備真備と一緒に帰国した玄昉は、物欲色欲丸出しで権力に擦り寄ろうとしていた。
当時の都は地震や飢饉に襲われた影響で貧民が道に溢れ、行き倒れて死ぬ者も少なくなかった。
世の中のひどい有様を見て、政治の仕組みを変えなくてはならないと思いつめる吉備真備に対して、玄昉は、巨万の富を投じて巨大な盧舎那仏を建立すれば人々は救われると断言する。
学問によって合理的思考を身につけた吉備真備にとって、玄昉の主張は妄言としか思えなかった。
けれども真備には、かつて唐からの帰国途中に嵐に遭遇した夜に、玄昉の全く根拠のない自信に一縷の望みを見出し、文字通り全力で玄昉にしがみついて船が難破する恐怖を乗り越えるという「黒歴史」があった。
もしかしたら、筋の通らない力によって人が救われることもあるのもしれないと思ったのかどうかは分からないけれども、真備は橘諸兄に玄昉を紹介するという愚かな選択をしてしまう。
聖武天皇の母である藤原宮子は、聖武天皇を産んですぐに精神的な病を患い、意思疎通も不可能な状態となったために、36年間も息子に会うことがなかったという。
ドラマのなかの宮子は、幻の蝿にまとわりつかれて苦しみ、終日その蝿を払い続けていて、人も話すことも、部屋の外に出て息子の聖武天皇に会うこともできなかったという。
橘諸兄は、宮子の治療のために、玄昉を宮中に派遣する。
ドラマでは、吉備真備が橘諸兄と関係を深めるのを面白く思わなかった藤原武智麻呂と、その息子の仲麻呂は、インチキ臭い玄昉を宮子に引き合わせ、母を思う聖武天皇を振り回したとして、吉備真備を厳しく糾弾し、橘諸兄を失脚させようとする。
ところが玄昉は、幻の蝿を手で捕獲して外に逃して見せたことで宮子の心を引きつけ、正気を取り戻させることに成功してしまう。
宮子は数十年ぶりに聖武天皇と対面し、玄昉は天皇に篤く信頼されるようになる。
けれども藤原氏と橘諸兄の権力闘争は、思わぬ形で決着することになる。
天平9年(737年)、都に天然痘が蔓延し、民衆からも貴族からも多くの死者が出る。
藤原四兄弟は全員死亡。
出仕できる公卿がほとんどいなくなってしまったため、必然的に橘諸兄が政治の中心となった。
橘諸兄は、吉備真備と玄昉をブレインとして聖武天皇を支える体制を作ったようだけれども、玄昉は人柄に難がありすぎるということで、だいぶ批判されたらしい。
Wikipediaの玄昉のページには、彼についての怪しい噂がいろいろ紹介されている。
生臭いところでは、聖武天皇の生母の宮子や光明皇后との密通の話があるけれど、ドラマでも、宮子と玄昉の関係は、かなり際どい感じで演じられていた。
その他、玄昉の死体が九州から空を飛んで都にやってきて、藤原氏の氏寺にバラバラに落下したとか、藤原広嗣の怨霊に殺されたらしいとか、空中から手が出てきて玄昉を連れ去り、頭だけ落としてよこしたとか、ろくでもない話が伝承されているようだ。
何をやったのかは分からないけど、よっぽど藤原氏の恨みを買ったのだろうというのは察せられる。
ドラマでは、橘諸兄に相手にされなくなった玄昉が、仲麻呂の館で酒と女に溺れる暮らしを送りながら、巨大盧舎那仏を建造する夢を追い続けていた。
一方、合理主義的な考えから仏像建立に否定的だった吉備真備は、行基という僧侶と出会ったことや、聖武天皇の仏像への思いを聞いたことから、少しずつ考えを変えていきつつあった。
続く。