第19回「果たせぬ凱旋」を視聴した。
頼朝と義経が完全に決裂してしまう回なので、ぐっさり心を刺される覚悟をして臨んだけれども、痛みよりも悲しみの勝る回だったと思う。
ドラマの中の義経は、無私の情愛や信頼を受け止める機会をことごとく逃しつづけ、周囲を取り囲む人々の打算や嫉妬に翻弄されながら、居場所を見失っていく。
けれども義経自身は、もっと早い時期に、兄の作る新しい武家社会に自分の居場所のないことを薄々気づいていたようだし、壇ノ浦での勝利によって、その気づきは冷え冷えとした確信に変わっていたようにも見えた。
都の義経を襲撃した土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)は、ドラマの中では義経の正妻、里(郷御前)の手引きで屋敷に侵入したように描かれていた。
Wikipediaによれば、土佐坊昌俊は頼朝の御家人として、治承・寿永の乱にも参加していた人物であり、義経襲撃も頼朝の招集に応じて名乗り出て、鎌倉から兵を率いて行ったのだという。頼朝の信任の厚い比企能員の姪である里(郷御前)に、土佐坊昌俊と連絡を取るための伝手があったとしても、そんなに不自然ではないのかもしれない。
十七日。丙寅。土佐房昌俊、先日、関東の厳命を含むに依り、水尾谷十郎已下六十余騎の軍士を相具し、伊予太夫判官義経の六条室町の亭を襲ふ。時に予州方の壮士等、西河の辺りを逍遥するの間、残り留まる所の家人、幾ばくならずと雖も、佐藤四郎兵衛尉忠信等を相具し、自ら門戸を開き、懸け出でて責め戦ふ。行家、此の事を伝へ聞き、後面自り来り加はり、相共に防ぎ戦う。仍て小時にして昌俊、退散す。予州の家人等、走り散じて之を求む。予州、即ち仙洞に馳せ参り、無為の由を奏すと云々。
※西河……桂川のこと。
※予州……伊予の国。
※仙洞……上皇、院の御所。
【雑な意訳】
文治元年(1185)、十月十七日。丙寅。
土佐坊昌俊という、大和国興福寺金剛堂の堂衆だった男が、頼朝の厳命によって、水尾谷十郎以下六十騎あまりの兵を率いて、六条室町にある義経の邸宅を襲撃した。
襲撃された時、義経の家来たちは桂川あたりをほっつき歩いていたため、屋敷にはほとんど人がいなかった。けれども、義経は佐藤忠信らと共に、自ら門戸を開いて飛び出し、敵を攻めた。
叔父の源行家は、襲撃の知らせを聞いて義経邸に駆けつけ、土佐坊昌俊の背後を叩いた。
そのため、しばらくして土佐坊昌俊は退散。義経の家人たちは逃げた土佐坊たちを捜索するために、分散して走り去った。
義経は、後白河院の元に馳せ参じて、無事であると奏上したという。
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ドラマでも出てきた、義経邸(源氏堀川館)の佐女牛井(さめがい)之跡の石碑をgoogleマップで探してみた。
井戸跡のすぐ後ろにプレハブが見えるけど(2022年5月17日現在)、その周囲は西本願寺関連施設や、駐車場になっているようだ。
義経の正妻の里(郷御前)と、妾の静御前が、同居しながらバトルしていた837年前には、どんな町並みだったのだろう。
この館から西に4kmちょっと歩くと、桂川がある。
義経が襲撃された日、佐藤忠信以外の家来たちは、桂川に遊びに行っていたのだという。平安貴族たちは、桂川で舟遊びをしたらしいから、家来たちも物見遊山に出かけたのだろう。土佐坊昌俊は、館から人が出払っているのを確認した上で襲ってきたのかもしれない。
この襲撃の翌日、文治元年十月十八日に、頼朝追討の宣旨が出される。
その四日後の十月二十二日には、頼朝の元に知らせが届き、二十五日には先発隊を鎌倉から出し、二十九日には頼朝自身も京都に向けて出立したと、「吾妻鏡」に書いてあった。
兵を集めることのできなかった義経と行家には、都落ちの選択肢しか残っていなかった。
都を去る直前に、義経が北条時政・義時父子の元に来たというのは、脚本家さんの創作なのだろうけれど、その場面は、これから滅びに向かう義経への、最高のはなむけだったように思う。
周囲の思惑と打算に翻弄されつづけ、すでに人生をあきらめかけている義経に、時政と義時は、真心のこもった嘘のない言葉を贈り、生き続けるように励ましていた。北条の人々の言葉とぬくもりは、義経の滅びに向かう足取りを止めることはできなかったのだろうけど、裏切りや絶望以外の何かが彼の人生に残ったように思える。それがドラマの虚構であったとしても、見ている私の心の救いになった。
とはいうものの、このあと静御前が産んだばかりの子を奪われて殺される悲劇が待っているわけで、次回以降の視聴が、いまからかなりつらく思われる。
このドラマ、子を奪われて失う親の話が、何度も繰り返されている。
頼朝との間に生まれた息子を父親に殺された八重。
頼朝に嫡男を殺された武田信義。
壇ノ浦で我が子の安徳天皇と共に入水したものの、自分だけ救われてしまった建礼門院。
ドラマで描かれるかどうかは分からないけど、源行家の長男と次男も、斬首されるそうだ。
少なくとも、政子が我が子全員を失うまで、この繰り返しは続くことになる。
しんどい。(´・ω・`)
( _ _ ).。o○
しんどい話が続くときでも、食べ物を探して画面に目を凝らすことはやめられない。
前回、おいしそうなサトイモが出てきたので、期待したのだけども、残念ながら今回は料理や食材を見つけることはできなかった。
見つかったのは、鉄鍋だけ。
日本一の大天狗こと後白河院に会うために都にやってきた時政と義時が、つやつやした立派な鉄鍋のかかった囲炉裏の脇で酒を飲んでいるシーンがあったのに、鍋の中身は見せてもらえなかった。箸っぽいものが床にあったから、食べ終わってしまったのだろうか。
鉄鍋で、一体、何を煮ていたのだろう。
囲炉裏は、平安時代の寝殿造の屋敷だと、高貴な方々の居住区域にはなかったようだけど、随身所(ずいじんどころ)には設置されていたようだ。
平安時代後期の摂関家の寝殿造(東三条殿)について記した、「類聚雑要抄」(国立国会図書館デジタルコレクション)という書物では、「地爐」という設備を備えた随身所の図面が掲載されている。
時政たちが滞在していたのは、貴族向けの屋敷ではなく、随身相当の武官、武士のための建物だったのだろう。
あるいは、大番役(京都市中の警護をする役目)のために上京してくる地方武士たちに用意された屋敷だったのかもしれない。
鎌倉時代より後の室町期に書かれた「大草家料理書(おおくさけりょうりしょ)」という料理本に、鍋料理の記述がある。
鴈のいで鳥と云は、足手を落し、水出しと醤油にて不レ切ににて、食樣ニ薄切に作 也、 一鴨のいで鳥は、湯を以て洗て、丸に鍋ニ入て、花鰹を入て、酒とぬかみそ少し入てたく也、食樣に薄く作て、醤油か酢か、又は辛酢も食也、
「古事類苑」飲食部四 料理下 「大草家料理書」
「いで鳥」の意味が不明だけど、文脈的に「ゆで鳥」をこしらえているので、「いで」は「ゆで」なのかもしれない。
「鴈(かり)」の羽と足を落として、水と醤油で丸ごと煮て、食べるときに薄切りにするようだ。
「鴨」は、湯で洗ってから丸ごと鍋に入れて(羽と足は落とさないのだろうか)、花鰹、酒、ぬかみそを少し加えて炊いている。食べるときにはこれも薄く切って、醤油か酢か、辛酢などをつけて食べるようだ。
十月の夜の酒の肴には大変よさそうな鍋料理だ。
時政たちが鳥鍋を食べていたかどうかは分からないけど、女手のなさそうな屋敷で、坂東武者の親子が、鴨でもとってきて、豪快に男の料理をこしらえていたのかなと想像してみるのは楽しい。野菜を愛する時政は、京野菜をみつくろってきて鍋に加えたりしたかもしれない。