湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

「鎌倉殿の13人」(17)助命と宿命

先週の日曜日に放映された第17回「助命と宿命」を、先ほど見終わった。

 

キツい話になるのが分かっていたから、見る勇気を溜めるのに一週間もかかってしまった。

 

ドラマでは、頼朝は義時に木曽義仲の息子の義高(市川染五郎)の処刑を命じていたけれど、「吾妻鏡」ではどう書かれているのか。

 

手元にある角川ソフィア文庫版の「吾妻鏡」には、そこのところの記事が載っていなかったので、kindle unlimited(読み放題)で利用できる「新刊吾妻鏡 巻2-3 (国立図書館コレクション)」で確認してみたのだけど……

 

 

当然のことながら、漢文だ。

ものすごく、漢字ばっかりだ。(´・ω・`)

 


とりあえず、義高脱走の日の記事を、頑張って書き写してみた。

 

寿永三年

四月二十一日 巳丑

自去夜殿中聊物忩。是志水冠者。雖為武衞御聟亡父已蒙勅勘被戮之間。為其子其意趣尤依難度可被誅之由。内内思食立。被仰含此趣於昵近壮士等。女房等伺聞此事密密告申姫公御方仍。志水冠者。廻計略。今暁遁去給。此間仮女房之姿姫君御方女房囲之出。而海野小太郎幸氏者與志水同年也。日夜在座右庁時無立去。仍今相替之。入彼帳台臥宿衣之下。出髻云云。日闌後于志水之常居所。不改日来形勢独打双六。志水好双六之勝負。朝暮玩之幸氏必為其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處及晩[糸寄]露顕。武衞太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遺堀藤次親家巳下軍兵於方方道路被仰可討止之由。姫公周章周章銷魂給。

 

読みが分からない漢字があるので、書き下し文を作るのはあきらめたけど、分かる範囲で、意訳してみた。(誤読している部分もあると思うけどご容赦ください。)

 

寿永三年(1184年) 四月二十一日 巳丑

 

夜になってから御所の中がちょっと騒がしくなった。
志水冠者(義高)は、武衛(頼朝)の娘婿ではあるけれども、父親の木曽義仲は勅命によってお咎めを受けて処刑されているわけで、何を考えているか分かったものではないということで、処刑してしまおうと内々で決意して、身近に仕えている勇猛な家臣たちに、意向を言い含めておいた。

 

ところが女房たちがそのことを立ち聞きしていて、こっそりと大姫様に伝えてしまった。

 

志水冠者(義高)は計略をめぐらし、明け方、女装して大姫様のところの女房に取り囲まれて脱走なさった。

 

海野小太郎幸氏(ゆきうじ)は、志水冠者(義高)と同い年である。彼はいつも志水冠者(義高)のそばにあって、片時も離れなかったのだけど、この脱走に際して志水冠者(義高)の身代わりとして寝所に入り、布団から髻(もとどり)だけ出していた。

 

日が高くなってから、志水冠者がいつも過ごす場所に行って、普段通りの様子で双六を打っていた。志水冠者は双六の勝負がすきで、朝から晩まで双六で遊んでおり、幸氏は必ずその相手をしていた。

 

だから御所の人々はみんな、そこに志水冠者がいるものだとばかり思っていた。

 

(↑ここのところは解釈にかなり自信がない…)

 

夜になって志水冠者の脱走が露顕した。


頼朝はひどく激怒なさって、幸氏を捕縛し、堀藤次親家に命じて、兵を方々の道路に送って志水冠者を討ち取るように命じた。

 

そのことを聞いた大姫様は、魂が消し飛ぶほど狼狽なさった。

 

この「吾妻鏡」の記述だと、大姫主導で義高を脱走させているように読めるけれども、大姫は当時六歳前後だったはずだから、さすがに無理があると思う。ドラマのように、政子たちがサポートしたと考えるのが自然だろう。

 

阿野全成三浦義村まで、脱走チームに参加していたというのは、さすがに面白過ぎるけれども、その面白さが、直後に起きる義高惨殺の悲惨さを際立たせたともいえる。そのあたり、この脚本家さんは、ほんとうに底意地が悪いと思う。

 

それにしても、上総介広常といい、木曽義高といい、頼朝に処刑される人は双六が好きだという法則でもあるのだろうか。

 

聞くところによると、平安時代の双六は、バックギャモンとほとんど同じなんだとか。

 

Amazonで「京すごろく」という名前のバックギャモンが販売されていたけど、あまり「京」っぽくはないようだ。

 



 

話が脱線した。

 

上総介広常の処刑、義高の処刑、さらには武田信義の息子である一条忠頼の処刑という、あまりにも非情な出来事を目の当たりにした義時の顔から、若さと笑顔がどんどん消えていく。

 

義時の未来には、頼朝の息子たちを切り捨てる宿命が待ち受けているけれども、そのときには、どんな顔を見せるのだろう。

 

 

( _ _ ).。o○

 

今回も、食事のシーンが見当たらなかった。

食欲の失せる話ばかりだったから、仕方がないけど、ちょっと寂しい。

 

なので無理やり食べ物の話を追加する。

 

頼朝が感激した鮭の干肉

 

源頼朝(一一四七~一一九九)は建久元年(一一九〇)に京に上り、院や朝廷に参じた。途中の遠江(静岡県西部)の菊河宿に泊まった折、守護の佐々木盛綱が、折敷に鮭の楚割(すわやり)をのせ、小刀をそえて頼朝にとどけてきた。

 

「ただ今、これを削りて食せしむところ、気味すこぶるよく、時を置かずに召し上がりください」という使いの口上もあり、頼朝はよろこんで早速、その贈り物を賞味。よほど味がよかったのだろう。

折敷を手に、自ら筆をとって

 待ちえたる人の情も楚割の わりなく見ゆる心ざしかな

と返礼の歌を書きつけて返したという(『吾妻鏡』)。楚割は、魚肉を細長く切って干したもので、食べる時に、小刀で好みに削ってから食べる。

 

古くは、木の細枝を「スハエ」といい、鮮魚の肉を、細枝のように割くところから、正しくは「スハエワリ」であったものが、「スワヤリ」に転じたものだという。細長く切って作るために「魚条」とも書くが、『和名抄』にも、

 

 魚条 読須波夜利(すはやり)  本朝式云楚割

 

とある。とくに、鮭の楚割が好まれたのは、仕上がりの色が美しく美味だったためで、高価でもあった。都の貴族たちにとっては、珍しくもない干物であるが、地方の武士にとっては、めったに口にすることのできない、ご馳走だったのである。

 

永山久夫「『和の食』全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」

 

 

 

建久元年(1190年)に、頼朝が鮭の干物を賞味したという。

今回のドラマは寿永三年(1184年)の出来事だから、六年後ということになる。

 

頼朝の上京のころには、またドラマに食事のシーンが出てくるかもしれない。

出てこなかったら泣く。(T_T)