だいぶ遅くなったけど、前回の「鎌倉殿の13人」の感想メモを書いた。
富士川の戦いで、平氏側の軍が仰天して撤退して行くまでの、頼朝周辺のさまざまな不協和音を、丁寧に見せられた回だったように思う。
坂東武者たちは頼朝の大義よりも、自分の所領を保全を何よりも重んじるという意向を隠しもしない。
甲斐源氏の武田信義も、頼朝を出し抜いて軍功を上げるための策に余念がない。
北条は完全な板挟みのポジションで、どっちつかずで流されやすい時政は、頼朝からも武田からも軽くあしらわれ、坂東武者たちからは突き上げを食らって、いいところなしの状況になっている。
そんな時政が、水辺で三浦義澄とじゃれあって水鳥を飛び立たせ、その音を敵襲と勘違いした敵軍が総崩れで退却してしまうというのは、史実ではないのだろうけど、なんとなく納得感があって面白かった。
ほんとうの北条時政がどんな人だったのかは分からない。
でも、伊東の家で持て余された流人の頼朝を引き取って婿にしたり、勝てるかどうか分からないのに、頼朝を担いで挙兵したりするのだから、利害重視の計算ずくで動くタイプではなく、どちらかといえば、情に流されたり、うっかり調子にのっちゃって動く人だったと言われたほうが、しっくりくる。
そんな時政がいたから、頼朝は鎌倉幕府を開けたのだろう。
(_ _).。o○
「吾妻鏡」で富士川の戦いのところを読んでみたけど、残念ながら北条時政や義時の姿は見えない。
治承四年(一一八〇)十月二十日
廿日、己亥。武衞、駿河国賀島に到ら令め給ふ。
又、左少将惟盛・薩摩守忠度・三河守知度等、富士河の西岸に陣す。
而るに半更に及び、武田太郎信義、兵略を廻らし、潜かに件の陣の後面を襲ふの処、富士沼に集まる所の水鳥等、群れ立ち、其の羽音、偏に軍勢の粧ひを成す。
之に依り平氏等、驚き騒ぐ。爰に次将上総介忠清等、相談じて云はく、東国の士卒、悉く前武衞に属す。吾等、なまじひに洛陽を出で、途中に於いて已に囲みを遁れ難し。速やかに帰洛せ令め、謀を外に構ふ可しと云々。
羽林已下、其の詞に任せ、天曙を待たず、俄かに以て帰洛し畢んぬ。
【現代語訳】
二十日。己亥(つちのとい)。武衞(源頼朝)は駿河国賀島に到着された。
また、平維盛・平忠度・平知度らは、富士川の西岸に陣を敷いた。
ところが夜半になって、武田信義が兵略を廻らし、密かに平氏の陣の背後を襲ったところ、富士沼に集まっていた水鳥たちが群れをなして飛び立ち、その羽音が全く軍勢のようであった。
このため平氏は驚き騒いだ。この時、次将であった伊藤忠清らが相談して言った、「東国の武士は全て前武衞(頼朝)に従っています。我らは無理を押して京都を出発し、途中にあって既に(敵の)囲みを逃れ難い状況です。速やかに京都に戻り、策略を別に講じるべきです。
羽林(維盛)以下はその言葉に従い、夜明けを待たず、急いで京都に戻った。
*武衞…兵衛府の唐名。ここでは源頼朝のこと。
*羽林…近衛府の唐名。ここでは平維盛のこと。
「武衛」も「羽林」も、宮中で天皇を護衛する役職。かつて頼朝が父の義朝の後継として将来を期待されて右兵衛権佐に任ぜられたように、平清盛の嫡孫の維盛も華々しく任官したのだろうか。
維盛という人は光源氏にも例えられる美少年だったそうで、富士川の戦いのときには、二十歳そこそこだったようなのに、総大将として坂東に送り込まれ、水鳥に驚いて逃げ帰るという壮大な黒歴史を築いてしまう。
そこからケチがついたわけではないのだろうけど、平氏のなかでも微妙な立場に置かれた挙句、最後は都落ちして、入水自殺したとか、病死したとか、いろいろな説があるようだ。
頼朝とは対照的な人生のようだけれども、頼朝だって嫡流は残らないわけだし、結局のところ、平氏も源氏も嫡流と目される人物が坂東武者と関わるとロクな末路をたどらない、ということになるんだろうか。
短いけど、今回はここまで。