第七回「敵か、あるいは」を視聴した。
敵かどうか問題になったのは、上総広常(佐藤浩市)という武将。
Wikipediaの「上総広常」のページの冒頭には、
上総広常は平安末期の武将、豪族。
と書いてある。つまり、鎌倉時代には武将ではなくなっている。出番はだいぶ短そうだ。
ドラマのなかでは、二万もの軍勢を持つといわれる広常は、懐柔するためにやってきた平家側の梶原景時(中村獅童)と、頼朝側の和田義盛&北条義時を前にして、上から目線の日和見姿勢を取っていた。
上総広常は、平忠常を先祖とする房総平氏で、彼より先に頼朝に従った千葉常胤(岡本信人)とは、従兄弟の関係だったという。
平氏であり、関東で強大な勢力を持っていた彼らが、なんでわざわざ無力な頼朝について挙兵したのか。
ドラマでは「神仏の加護を感じさせる頼朝の強運やカリスマ性」と「広常のあけっぴろげな打算」の両方で説明しようとしていた。割合としては、「打算」が9割以上で、強運とカリスマ性が最後の一押しだったように思う。
坂東武者のために挙兵したのだという北条義時に対して、上総広常は「頼朝について何の得がある?」「頼朝をお飾りにするつもりか」「飾るに足る器であるのか」というような、露骨に打算的な問いを投げかける。
広常にとっては、自分たちの治める土地が健やかに守られることが一番の願いであって、その願いをかなえるのに最も都合のいいトップを慎重に選ぼうとしているようだった。
中央で後白河院と対立しながら平氏の既得権益を死守しようとしていた清盛は、都から遠い東国の武士たちの思いを受け止めてくれる存在ではなく、支持しつづけて得があるかどうかも、微妙な状況になっていたのかもしれない。
上総広常は奇襲を受けても生き延びる頼朝の強運を確認したのちに、挙兵を決意し、二万の兵を率いて、頼朝の元に参じた。
その時点でも、広常は状況次第では即座に裏切るつもりだったようだけれども、頼朝がいつもの了見の狭さを発揮して、広常の遅参を厳しく非難したために、かえって将として筋の通った矜持の持ち主のように見えてしまったことで、広常の心を掴んでしまう。
「吾妻鏡」では、そのあたりの広常の打算や改心について詳しく語っていて興味深い。
治承四年九月十九日条
十九日。戊辰。上総権介広常、当国周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の輩等を催し具し、二万騎を率ゐて、隅田河の辺りに参上す。
武衛、頗る彼の遅参を瞋り、敢へて以て許容の気なし。広常、潜に以為へらく、当時の如くんば、率土、皆、平相国禅閤の管領に非ざるは無し。
爰に武衛、流人と為て、輒ち義兵を挙げ被るるの間、其の形勢、高峻の相無くば、直ちに之を討ち取り、平家に献ず可し、者り。
仍て内には二図の存念を挿むと雖も、外には帰伏まの儀を備へて参る。然れば此の数万の合力を得、感悦せ被る可かの由、思ひ儲くるの処、遅参を咎め被るるの気有り。
是、殆人主の躰に叶ふなり。之に依り、忽ち害心を変じ、和順し奉ると云々。
【現代語訳】
十九日。戊辰。上総広常が上総国の周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の者たちを召し連れ、二万騎を率いて、隅田川の辺りに参上した。
武衛(源頼朝)はたいそうの遅参に怒り、まったく許そうとする様子がなかった。
広常は密かに「現在の状況は、全国皆、平相国禅閤(清盛)の支配でない所は無い。このような中で、武衛は流人の身で、すぐに挙兵されたのであり、その様子に気高いところが無ければ、直ちに討ち取って、平家に献上しよう」と考えた。
そこで心の内には逆心を懐いていたが、表面的には帰服したようにして参上した。そのため(頼朝は)この数万の援軍を得て、感激し喜ばれるであろうと、(広常は)予想していたところ、(頼朝には)遅参をお咎めになる様子があった。
これはまことに人の主君としてのあるべき姿である。これにより(広常は)たちまち害意を改めて、(頼朝に)従ったという。
※禅閤……在家のまま剃髪した人。
まるで直接インタビューでもしたかのように、上総広常の本心がすっぱ抜かれているけれど、まさか本人がこんなことを吹聴して回ったとも思えない。
ドラマでは、広常は義時にこっそり告白していたけれども、「吾妻鏡」では、この時点で広常と義時の交流があったとは書かれていない。
たぶん、広常本人が語るまでもなく、強大な広常と無力な頼朝との間に信頼関係など無かったことは、周囲には明白だったのだと思う。
広常が頼朝についたのは、「吾妻鏡」が特筆するような頼朝の「高峻の相(気高い様子)」を含めて、平家に対抗して坂東を有利に回していく上で、担いで利用するに足る人物だと判断したからだろう。
でも上総広常は、鎌倉時代を迎える前に歴史から消えてしまう。
Wikipediaの記事によれば、治承四年の挙兵から4年後の1184年に、頼朝に謀反を疑われて、双六をやっているときに梶原景時に誅殺されたらしい。
計算高さを見透かされて、不安要素として排除されたのか。
それともドラマで頼朝(大泉洋)がこぼしていたように、顔が怖すぎてヤバいと思われたのか。
(_ _).。o○
今回は食事に関する場面がなくて寂しかった。
和田義盛と義時が、寺に泊まった夜に酒を飲んでいたけど、肴は見当たらなかった。酒のほうは、ずいぶん大きな酒瓶を用意していたけど、どこから調達したんだろう。
飲食の場面ではなかったけど、政子たちと一緒に伊豆山権現に避難していた牧の方が、若い僧侶をからかって、ほんとうにお魚を食べないのかとツッコんでいる場面があった。
平安末期のお寺の食事は、どんな感じだったのだろう。興味深い。