湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

中世史の勉強……室町時代の西の方

末っ子が日本史の小テストを控えて集中的に勉強しているので、試しに「いかにも出題されそうな問題」をいくつか出してもらったけど、歴史音痴の私にはさっぱり解けない。

 

たとえば、こんなの。

 

【問題】

 

室町時代に、薩摩国の島津忠廉に招かれて朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いたのは誰か?

 

 

うん。微塵も分からない。

 

なので、教えてもらった。

 

桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)という人だそうだ。

 

なんか米津玄師みたいな名前だ…。

 

末っ子の説明と、書斎から出てきた亭主の補足、Wikipediaの記事などを使って、私なりにまとめてまた。


桂庵玄樹は、1467年遣明船に乗って明に渡り、朱子学を極めた。

 

1473年に帰国したけど、都は応仁の乱の真っ最中だったから、石見国(島根県のあたり)に避難。

 

当時の石見国の守護は山名政清。

この人は宗家の山名宗前に従って西軍についていたようだけど、その山名宗前は1473年に、腹を切った傷がもとで死去している。

 

応仁の乱終結した年に、山名政清は守護をも大内政弘に交替したというから、桂庵玄樹が身を寄せていた石見国も、さぞかしゴタゴタしていたことだろう。


応仁の乱終結した翌年の1478年、桂庵玄樹は、島津氏当主である島津忠昌に招かれて、大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。

 

けれども大隅国(鹿児島県あたり)も日向国(宮崎県あたり)も、このころは大変なゴタゴタ続きだったようだ。

 

桜島が文明三年(1471)から5年にわたって大噴火したために、大隅、日向の農地は火山灰に覆われてしまい、困窮した農民たちが離散し、家臣たちの土地争いが頻発していたのだという。


その後、桂庵玄樹は、島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じることになる。

 

島津忠廉という人は、桜島噴火後に宗主の島津忠昌に謀反を起こしたけれども、のちに忠昌に従ったという。


島津忠廉は、宗祇から「古今和歌集」「伊勢物語」を学び、桂庵玄樹からは朱子学を学んだけれど、延徳3年(1491年)、なぜか天王寺(大阪)で亡くなっている。享年52。大阪に何しに行ったのかは分からない。

 

火山灰や戦争でゴタゴタ続きの九州ではあるけれど、財政的、文化的に貧しいわけではなかったようだ。

 

室町時代の遣明船では、武具や扇、銅、硫黄が主に輸出されていたらしい。


なかでも硫黄は最大の輸出品だったという。

その硫黄の主な産地は九州だったので、島津氏の経済は硫黄で大いに潤ったようだ。

 

室町のころに硫黄なんて何に使われていたんだろうと思ったら、火薬の材料なんだそうだ。

 

火薬なんて、もっと後の戦国時代の産物だと思っていたけど、元寇(1274年、1281年)のころには、隣の大陸ではすでに火薬を使った兵器が実用化されていたのだそうだ。

 

硫黄、Amazonでも売ってた。

まさか火薬の材料として売買されてるのかと思ったら、もちろん違った。

熊や鹿などに使われる、忌避剤だそうだ。効きそうだけど、ニオイも凄そうだ。

 

 

そんな近代兵器の原料を輸出していながら、島津家宗主の島津忠昌は、戦争よりも文学、芸術のほうが好きだったらしく、桂庵玄樹のほか、雪舟にも師事して、文化を広めることに尽力していたという。

 

死因は、島津家の内乱と、自身の狂気に苦しんだあげくの、自害だというから、ずいぶんキツい人生だったのだろう。西行の「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」を辞世としたと、Wikipediaの記事にあった。

 

島津忠昌が亡くなった1508年に、桂庵玄樹も亡くなっている。

 

応仁の乱から果てしなく続いた動乱の時代を生きた学僧は、自分とかかわった大名たちの興亡を、どう見ていたのだろう。

 

島津氏のその後が気になったので、ちょっと調べてみたら、代々壮絶な感じだった。

 

第11代当主 島津忠昌 文学好き 自害

第12代当主 島津忠治 学問好き・文化活動好きで内乱促進 戦死 享年27

第13代当主 島津忠隆 文学に傾倒して内乱おさまらず 享年23 

第14代当主 島津勝久 人の話を聞かない朝令暮改な人 亡命後、死去 享年71

第15代当主 島津貴久 ゴタゴタをかなり片付けた、島津家中興の祖

第16代当主 島津義久 優秀な弟たちとともに躍進 英雄にして教養人

第17代当主 島津義弘 戦国時代屈指の猛将。鬼島津。医術に詳しく、趣味は茶道

 

時代が下るほど、文武のバランスのとれた優秀な当主が出現したようだ。

 

戦国大名の正体 家中粛清と権威志向」(鍛代敏雄 著 中公新書)という本に、日新斎忠良(島津忠義・15代当主貴久の父)の遺訓に触れていたので、引用してみる。

 

ここで『島津家文書』に収められている、永禄四年(一五六一)十月に書かれた日新斎忠良の遺訓を見ておきたい。

 

島津家のいわば国主論にかかわる政治思想をうかがうことができる。すなわち、島津家の分国を統治するためには、我が身を惜しまず、過ちを改め、何事にも立腹せず、憤怒の気持ちを抑えて、人々の言葉を大切にすること。真情に任せれば「天道・神慮」「仏法」も島津家中にとどまり、なお分国を庇護してくれる、といったものだ。

 

こんなことを書き遺したくなるほど、島津の身内のなかには、大名の資質に欠ける反面教師がどっさりいたのだろう。

 

 

( _ _ ).。o○

 

九州でだいぶ脇道に逸れてしまったけど、面白かったのでいいことにする。

 

桂庵玄樹という人のことを微塵も記憶していないと思っていたけど、Wikipediaの「薩南学派」の記事を読んでいたら、桂庵点の考案者が桂庵玄樹であると書いてあって、脳の奥底で埃をかぶっていた古い記憶が蘇った。

 

学生のころ、亭主にくっついて訓点資料についての研究発表を何度か聞きに行ったことがあり、そのときに「桂庵点」という用語を確かに耳目に入れている。訓点語学会というところだったけど……恐ろし気もなくよく参加できたものだと、若いころの自分に呆れる。