湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

映画「ノア 約束の舟」

Amazonプライム・ビデオで、「ノア 約束の舟」を見た。

 

映像は素晴らしかったと思うけれども、ストーリーは、かなり賛否が分かれるのではないかと感じた。

 

たぶん、旧約聖書の創世記のノアの一家や方舟に関連する箇所を直接読んで、その内容の「分からなさ」に一度でも困惑したことのある人と、そういう経験のない人とでは、作品から受ける印象は相当に違ってくるはずだ。

 

ノア 約束の舟 (字幕版)

ノア 約束の舟 (字幕版)

  • レイ ウィンストン
Amazon

 

焼けただれた荒野で、ノアの家族が人目を避けて暮らしている。

 

生きるために他者を殺して奪うのが当たり前の時代なのに、ノアの一家は、アダムの末裔であることに誇りを持って、神の心にかなうよう、正しく暮らしてきた。

 

ある日、ノアは夢の中で神のメッセージを受け取った。

 

それは、地上の生き物が全て洪水に飲み込まれてごぼごぼと死に絶える、恐ろしい映像だった。

 

旧約聖書の「創世記」では、神はノアに次のように言葉で伝えている。

 

時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。

 

 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。

 

そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

 

創世記 第6章 11-13
 

 

ノアは悩んだ末に、家族を連れて祖父メトシェラ(メトセラ)の元へ行き、相談することにした。

 

過酷な旅の途中、ノアの妻が「お祖父様はご存命なの?」と夫に聞く場面がある。独居老人が生き延びるには厳しすぎる環境だから、当然の疑問だけれど、なぜかノアは祖父の健在を全く疑っていなかった。

 

そして祖父は、山の上の洞窟で、悠々自適のサバイバル生活を送っていた。

 

メトセラの年は合わせて九百六十九歳であった。そして彼は死んだ。

 

創世記 第6章 27節

 

神の作ったアダムの直系の子孫は、ある種の超人だったのだろう。

 

ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

 

創世記 第6章 32節

 

映画のノアは、500歳越えにしてはだいぶ若く見えたけど、やっぱり超人ではあったのだろう。

 

ノアが神から受け取ったという洪水の預言イメージは、当初は水中に没した人々や動物たちが生き絶えるというものだった。

 

けれども、その後それは、選ばれた動物たちだけが救われるものへと変わっていった。

 

そうした命の選抜のイメージから、ノアは、神の意志が邪悪な人類の殲滅にあると確信し、自らの家族も子孫を残すことなく滅びるべきだと考える。

 

正しい暮らしを送る自分たち家族の心の中にも、醜い妬みがあり、我欲が潜んでいることを、ノアは痛感していたのだ。

 

妻を持ち、長男として尊ばれる兄セムに嫉妬して、自分に嫁をとらせようとしない父ノアに反抗的なハム。

 

神の意志に逆らってでも、自分の息子たちには妻子を持って栄えてほしいと願わずにはいられない、ノアの妻。

 

ノアは、身内のそうした人間臭い思いを、神の心にかなわないものと考えたのだ。

 

けれどもノアは、ここで神に試されていたらしい。

 

ノアの受けた預言のイメージには、ノアの一族の滅亡までは含まれていなかったし、人が他者を愛する心を否定してもいなかった。

 

 

旧約聖書の創世記では、ノアへの神の指示は、次のようなものだった。

 

 

あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。

 

その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。

 

わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。

 

ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。

 

またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。 

 

すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。

 

また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。

 

ノアはすべて神の命じられたようにした。

 

創世記 第6章 14-22節

 

 

やはり、ノアの一族には、滅びを命じてはいない。

 

けれども、預言に過剰に忠実であろうとしたノアは、長男のセムの妻が方舟で身籠ったとき、赤ん坊が男子であれば、人類の最期の一人として生かすけれども、女子であれば、出産直後に殺すと宣言する。子どもを産む女子を生かせば、人類を滅ぼそうとする神の意志に反すると、ノアは考えたのだ。

 

当然のことながら、家族たちはノアの決定に激しく反発する。妻はノアを強い言葉でなじり、長男のセムは妻を連れて方舟から脱出しようとし、次男のハムは邪悪な密航者と凶暴して父を殺そうとする。

 

そうした家族の反発に内心深く傷つきながらも、冷徹に暴力で振り切ったノアは、生まれ落ちた双子の女の赤ん坊を手にかけようとする。

 

けれども、孫たちの顔を見た途端、心に芽生えた愛のために、殺意を殺意を完全に失ってしまう。

 

ノアは、神に向かって、自分には孫を殺すことはできないと告白する。

 

豪雨と洪水が去り、方舟は陸地にたどり着いたものの、ノアは家族から離れて、一人でぶどう酒に溺れる生活を送っていた。

 

大仕事を成し遂げた虚脱感からだったのか、あるいは神の意志に反して孫娘たちを生かしてしまったことへの自罰的な思いからだったのか、ノアの精神は荒みきっていた。

 

一度は父親殺しを目論んだハムもまた、兄一家を中心に力を合わせて暮らす身内の輪に入れず、心を荒ませていた。

 

何かを決意したらしきハムが、父親のもとに向かうと、それに気づいた兄セムも末の弟の手を引いて後を追った。

 

セムは、泥酔して全裸で転がっていた父親に服を着せて、末の弟と二人で介抱する。

 

けれどもハムは、一族の証である蛇の抜け殻の入った小袋をノアに放り投げて立ち去った。

 

ノアはハムが家族の絆を切り捨てたことを悟り、深く悲しんだけれども、ハムは兄の妻に優しい心を持とうと言い残して、一人っきりで新天地へと旅立っていく。

 

自分を責め続けるノアに向かって、セムの妻は、神の意志を解き明かしてみせる。

 

人の善と悪の両方から目を背けないノアに、人間を生かす価値のあるものかどうかを選び取らせたのだと。ノアが、生まれたばかりの孫たちへの愛と慈悲を選び、家族を愛しく思う気持ちに苦しんだために、神は人間を残すことにしたのだと。

 

 

映画のような家族との摩擦のくだりは、聖書には書かれていない。聖書の中では、ノアは孫の殺害予告をしないし、次男のハムが父親殺しを目論んだりもしない。

 

けれども「創世記」は、洪水後に、ノアが次男ハムに憤り、彼の未来を子孫ごとバッサリ切り捨てたことを記している。

 

この謎の切り捨てこそが、ノアに関する記述のなかで、年齢設定以上に「分からない」箇所でもある。

 

長くなるけど引用してみる。

 

さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

 

カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

 

セムヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

 

やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。

 

また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。 神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。

 

創世記 第9章 20-27節

 

映画のなかのハムは、恋人をノアに見殺しにされて未婚だったから、息子のカナンも登場しない。

 

だけど、聖書のなかのハム親子は、なにか途轍もなくまずいことを、ノアに対してやらかしたらしい。

 

こういう想像は不謹慎にすぎるかもしれないけれども、私はハムの息子のカナンが、祖父ノアを強姦したのかしらと思った。

 

そうでなければ、酔いから覚めて「末の子が彼にした事を知ったとき」の、ノアの第一声が、

 

「カナンはのろわれよ」

 

だったことや、セムヤペテが父親の裸を絶対見ないように、わざわざ後ろ向きに歩み寄ったこと、そして次男ハムが父親の介抱に手を貸さずにいることの説明がつかないと感じたのだ。

 

どう考えても父親の恥辱になるような状況であれば、セムヤペテは全力で目を背ける必要があっただろうし、自分の息子のやらかした罪にいたたまれなかったハムは、父親に近寄ることも出来なかったことだろう。

 

ハムの子孫について、創世記は次のように記している。

 

カナンびとの境はシドンからゲラルを経てガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムを経て、レシャに及んだ。

 

これらはハムの子孫であって、その氏族とその言語とにしたがって、その土地と、その国々にいた。

 

創世記 第9章 19-20節

 

 

よく知られているように、ソドムとゴモラは悲惨な末路を辿ることになる。

 

 

主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

 

創世記 第19章 24-25節

 

 

先祖のやらかしが末代まで祟るというのは、過酷な話ではあるれけども、創世記で、神は人間について、ノアにこう語ってもいる。

 

ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。

 

主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

 

創世記 第8章 20-21節

 

 

「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」から、人間の悪を理由に地上を滅ぼすことはしない、という。

 

人間の製造元(神様)が、ポンコツなのは仕様であると言い切っていいのかと思うけど、それに反論できるものは人類の中にはいないだろう。

 

映画「ノア 約束の方舟」は、ハムの息子がらみのアレな聖書の記述について、スパッとなかったことにした上で、人の心に宿る愛と慈悲を人類存続の根拠とした。その綺麗な解釈にも、意を唱えようという人はそんなにいないだろうと思う。

 

というか、聖書に書かれたノアと孫とのアレな内容を知っていれば、映画をああいうストーリーにするのは当然だろうなと納得するしかない。

 

などという、身も蓋もない感想はともかくとして、セムの妻役のエマ・ワトソンは、ほんとうに美しかった。