睡眠導入剤がわりに末っ子に音読してもらう習慣も、ずいぶん長く続いている。
昨晩は、夏目漱石の「夢十夜」の第二夜から第五夜の途中まで読んでもらった。
第一話の、女が死んで百年後に帰ってくる話は、学校の国語の時間に読んだというので、飛ばした。
第二夜は、血の気が多すぎて落ち着きのない侍が、座禅をして悟りを得ようと苦悶する話だ。
隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上てま、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りを引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。
「夢十夜」第ニ夜
末っ子曰く、
「こいつ、悟れねえ」
うん。数十年前の私も同感だった。
もし悟れなければ自刃する。侍が辱められて、生きている訳にはいかない。綺麗に死んでしまう。
末っ子曰く、
「意味なくない? 死ぬなら勝手に死ねよ」
でもこの侍には、勝手に死ねるほどの自分がないのだ。
「侍」としての自分を馬鹿にする相手を殺すし、「侍」として屈辱を晴らせなければ自分を殺す。この人から「侍」を取ったら、なにもないのだから、自分の理由で勝手に死ぬことはないだろう。
そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無はちっとも現前しない。
末っ子「いや、いい線いってんじゃん?」
確かにいい線いっている。
和尚への憎悪も、「侍」としてのおかしな矜持も薄らいでいる。
ここで、「侍」以外の自分があることに気づけば、人生がちょっと変わるのかもしれないのだけど。
ところへ忽然と隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計がふたつめ二つ目をチーンと打った。
結局、彼は、自刃したのだろうか。
それとも、「侍」という器を捨てて、頼りなく不安定な自分として生きることを選んだだろうか。