こんにちは。
「津軽海峡冬景色」を歌っているつもりだったのに、気がつけば「北の宿」だった。
しかも気がついたのは、歌詞の最後部で「きたーーーのーー宿ーー」と歌った瞬間なのだから、どうしようもない。
ちょっとこれは駄目だろうと思って、脳の活性化を図ることにしたものの、折りからの鬱の悪化に妨げられて、行動が続かない。
鬱をなんとかしないと、マジでボケる。
そう感じて、ぞっとした。
(_ _).。o○
普段なら意識もしないほどの高さの障害物が、いきなり1メートルほどにせりあがるのが、私の場合の鬱の悪化だ。
行動の前に立ちはだかるこの障害物は、別名を「億劫の敷居」ともいう。
がんばれば乗り越えられそうな程度なのが、この敷居の悪魔的なところだ。
がんばれば乗り越えられそうに見えるから、がんばれない自分を責め叩くオートシステムを、鬱の人はあっさりと内在化してしまう。そして余計に鬱を悪化させる。
どう考えても家の中に1メートルの高さの敷居があるほうがおかしいのに、それを易々と越えられない自分が駄目だと思うのだ。そして、動こうにも動けない自分をますます責める。
私だけでなく、多くの鬱病患者はそのように苦しんでいるのではないだろうか。根っから自分を責めない性分の人は(そんな人がいるかどうか知らないけど)、たぶん鬱にならない。
けれども、鬱がよほど酷いときでも、1日のうちのどこかで、ささやかな晴れ間が訪れる。日内変動とかいう現象だそうで、私の場合は、おおむね夜寝る前がそれに当たる。
日内変動以外でも、なにかをきっかけとして、カラリと脳が晴れ上がることもある。
小春日和よりももっと短い、刹那の晴天が、どんな条件で引き起こされるのか、メモを取ってみようと思い立ったのは、もう一ヶ月以上も前になるのに、敷居が邪魔で書けなかった。
脳内の晴天を引き起こす条件を見つけても、それを書こうとした途端に気力が萎えるものだから、書き始めてみても、書き終わらない。
でも今日で今年が終わってしまう。
今年思いついたことは、今年のうちに決着をつけたい。
頑張ろうとすると途端に意欲が萎えるので、とにかく頑張らないように注意して、書けるだけ書いてみる。
鬱の曇天を突き破って訪れる、刹那の晴天。
たとえば、読んでいる小説の一節などに、脳をぎゅんと動かされた時に、それは起きる。
言語中枢に差し込まれた刺激が、なけなしのアドレナリンやセロトニンを搾りだす働きをするのかもしれない。
そんなふうに脳に「効いた」言葉の切れ端を書き取っておこうと、いつも思うのに、iPhoneを開いたとたん、脳の晴れ間は消え失せて、曇天に埋め尽くされる。
末っ子の音読や馬鹿話を聞かされて笑ったときなどは、晴れ間の維持時間がだいぶ長くなる。
笑いの効能は本当に凄まじい。
毎日爆笑していたら、たぶん、鬱から脱却できるだろうとも思う。
お笑いの動画などを探して、いろいろと鑑賞してみても、私は滅多に笑えない。ネタに感心することはあっても、笑いという情動が起きないのだ。笑いのツボが、たいていの人とはちょっと違うのかもしれない。
いや、若い頃はもうちょっと簡単に笑えていたような気もする。
「笑う犬の冒険」や、ウリナリ、バカ殿、ミスター・ビーンのビデオを子どもたちと観ながら、結構笑っていた気もする。
でも、いま見てもたぶん笑えない。
笑いって、不思議だ。
爆笑したときなど、自力では声が止まらなくて大変なくらいだから、くしゃみやあくびのような生理現象に近いものなんじゃないかとも思う。
笑いと脳科学についての記事などを拾い読みすると、人は予測したことと現実との間にギャップがあると気づいたときに笑い出すことが多いんだとか。
ずいぶん前に、亭主に聞かされて笑ったネタで、こんなのがあった。
ある芸人さんが、飲み屋で店員に焼酎を頼んだら、
「え、幼虫!?」
と聞き返されて、「たとえワシが幼虫と言ったとしても、焼酎と聞け!」と憤慨していたというのだ。
この手の聞き間違いは私も日常的に亭主にやらかしていて、そのたびに、この幼虫ネタが蒸し返されていた時期があったので、今思い出してもちょっと笑える。
こういうネタの記憶をストックしておけば、笑いの機会を増やせそうだ。