病院の待合室で、「笑いと治癒力」(ノーマン・カズンズ著 岩波現代文庫)を読んでいた。(再読)
不治の膠原病と診断され、24時間全身の関節の激痛に見舞われていた著者は、病室で滑稽な映画のフィルムを見て爆笑したところ、痛みが消えてしまったという。
効果はてき面だった。ありがたいことに、十分間腹をかかえて笑うと、少なくとも二時間は痛みを感ぜずに眠れるという効き目があった。
笑いの鎮痛効果が薄らいでくると、わたしたちはまた映写機のスイッチを入れたが、それでもう一度しばらく痛みを感ぜずにいられることが多かった。
(中略)
笑い(および積極的な情緒一般)がわたしの身体の化学作用に好影響をおよぼしていると信じるのは、どの程度科学的であろうか。
もし笑いが実際に身体の化学作用に健全な影響をおよぼすとすれば、少なくとも理論上は、組織の炎症に対する抵抗力がそれによって高まるはずだ。
そこで愉快な小ばなしを聞く直前と、それから数時間後とに血沈の測定を行ってみた。するといつも少なくとも五ポイント低くなっていた。その数字の差自体はそう大きくはないが、しかしそれは持続的であり、累積的だった。わたしは、笑いは身体の薬という昔からの説に病理学的な根拠があるということを知って、嬉しくてたまらなかった。
「笑いと治癒力」17-18ページ
何度読んでも、ここのくだりは大好きだ。
バカ笑いが身体にいいというのは、私も体験上断言できる。それも、命に係わるような大病をしているときほど、その効果は輝きを増す。
かつて、無顆粒球症で白血球がほとんど無くなった状態から復活した私がいうのだから、間違いない。本やテレビで笑ったあとの血液検査では、白血球が明らかに増えていたから。
いまでは白血球数は正常だけど、年々関節痛がひどくなっていて、寝起きなど、激痛に近いこともある。生活を振り返ってみると、どうにも笑いが足りていない。もっとバカ笑いすべきだろうけど、そうそう面白いことに遭遇するわけでもないし、どうしたものか。
なんてことを考えながら読みつづけていたら、耳が遠いらしい高齢のご夫婦の会話が耳に飛び込んできた。
「モゴモゴして聞こえないからハッキリ喋って」
「いいから補聴器使えよ」
「何?」
「だから、補聴器だよ!」
「えっ、爬虫類!?」
ご夫婦はお互いに相手の老化の進み具合のほうが酷いと思っておられるようで、それを証明しようとする噛み合わない会話が延々と続いていた。
だけど私にとっては、たったいま採取した聞き間違いの実例を書き留めることのほうが重要だった。
補聴器。
爬虫類。
なかなか衝撃的な組み合わせだ。
笑いを噛み殺しながら、iPhoneの付箋紙アプリに書き込んだ。
「会話が聞き取りにくくなったので医者に爬虫類を勧められた」
「最新のデジタル爬虫類では、不要な音を抑えて会話を強調することが可能らしい」
「卵から大事に育てた愛用品だけど、変温動物だから冬場は耳が冷えてつらい」
などと、くだらないことを考えつつ、ニヤニヤ笑いが止まらなくなる。
日常会話に困難をきたしているご夫婦を思うと、笑うのは不謹慎だとは思うけれども、私にとっては、聞き間違いや言い間違いは貴重な笑いのツボなので、大切に保存しないわけにはいかない。
そして、補聴器を爬虫類と聞く奥様のセンスには、共感を禁じ得ない。
なぜなら私も似たような聞き間違いを、しょっちゅうやらかすからだ。ちなみに聴覚に異常はない。
待合室の爬虫類の話を亭主にしたら、お前のほうが酷いと言って、早速過去の例をあげつらってきた。
「○○が見つからないんだけど、知らない?」
「これちゃうんこ(播州弁で『これではないのか』の意)
「えっ、焦茶うんこ!?」
文脈を完全に粉砕するシュールな破壊力に、我ながら戦慄する。
一応言い訳しておくと、私のような生まれも育ちもザ・東北という人間にとって、ナマの播州弁は、ほぼ外国語と言っていいほどの隔たりがある。語彙の違い以前に、アクセントやイントネーションの性質が違いすぎて、そもそも単語の切り分けが出来ない。
もっとも亭主に言わせれば、
「たとえ『焦茶うんこ』と聞こえたとしても、話の流れから考えて、それはあり得ないと気づけ!」
だそうだけど。
ひどい聞き間違いでも、治癒力を引き出す笑いにつながるなら、私はよいと思うのだ。
あ、ちなみに無顆粒球症で入院していたときに読んで笑っていた本は、こちら。
「美食倶楽部バカゲー専科」の一巻と二巻。
いま気づいたのだけど、三巻も出ていたようだ。
ほしいなあ。kindle版が出ればいいのに。