「自閉症」の時代 竹中均 著 講談社現代新書
著者は社会学の研究者で、発達心理学や脳神経科学の専門家ではない。
そういう立場の方が、社会の中にあって自閉症とはいかなるものかについて書いていることに、強く心を動かされた。
というか、心を強く動かされすぎて、なかなか読了できないので(そういう本が枕元にいっぱいある)、気になることを抜き書きしておく。
「アップルストアは入口をひとつだけにしようとジョブズは思った。そのほうが来店客の体験をコントロールしやすいからだ。(中略)店に足を踏み入れた瞬間、どこになにがあるのかわかることが大事なのだ。」(ウォルター・アイザックソン「スティーブ・ジョブズⅡ」)
すべてをコントロールできることは、確かに素晴らしい。クリエイターにとっては理想的かもしれない。
だがそれは反面、コントロールされる側にとっては苛酷だったり不都合だったりすることもありうる。他者の気持ちや立場に対する想像力が乏しい場合、事態は悪化し、社会的に受け入れられないトラブルを発生するかもしれない。
実際、よく知られているように、ジョブズの人生はトラブル続きだった。
竹中均「自閉症の時代」 9頁
アップルストアには行ったことがない。
行こうと思えば小一時間で行ける距離にあるようだし、興味がないわけでもないけど、わざわざ行ってみようと思わない。
行かない理由は、ものすごく落ち着かなくて、疲れそうなお店だから。
紹介動画をみつけたので、貼り付けてみる。
極限まで洗練されていて、合理的で、無駄がない。
自閉症教育のTEACCHプログラムでいうところの「構造化」が徹底されているとも言える。
何かを探したり、作業をしたりするためには、おそろしく快適だろうと思う。
年中探し物に時間を取られている、私みたいな人間には、理想的な空間かもしれない。
だけど精神的には全く落ち着けそうにない。
あまりにも無駄がなさすぎて、自分すら廃棄の対象にされそうな恐怖を感じる。
あんなところで、うっかり飲み物とかこぼしたり、棚にぶつかってコケたりしたら、警備ロボットに捕縛されてつまみ出される予感しかしない(そんなことは起こりえないだろうけど)。
目隠しに植えてある竹はきれいだと思うけれども、葉の一枚一枚の角度まで心地よい無秩序を形成するように計算されてそこにあるような風情をたたえていて、なんとも息苦しい気持ちになる。
自分のためだけの無駄な引出しのない空間には、私は到底馴染めない。
でもきっと、馴染んじゃったらラクなんだろうな、とは思う。
現在、彼に関しては発達障害の一つである自閉症的な傾向があったのではないかと一部の人たちは考えている。
本当のところは分からないため、これは永久に一説に止まるのかも知れない。
だが、ちょうどこの時期あたりから日本社会でも、自閉症に関する知見が広く一般に関心を持たれるようになったのは偶然の一致だろうか。ジョブズの人生の大部分の時期において、自閉症者とその世界について誰もあまり深く理解していなかったのである。
竹中均「自閉症の時代」 9頁-10頁
スティーブ・ジョブズがものすごく面倒くさい人柄だったということは、コンピューターの世界に疎い私でもいくらか知っていたけれども、自閉症だったかもしれないといわれていることは知らなかった。
appleのコンピューターの生みの親は、なんとなくADHD系だと思っていた。なぜかというと、Windowsをしょっちゅう壊す私(ADHD)が、マックのOSは一度も壊したことがなかったからで、きっとADHDの人間が壊しにくいように作ってあるOSなのだろうと思っていたのだ。
自閉症者の世界については、自閉症者の家族であっても、深く理解することは難しい。自閉症の当事者も、自分の頭の中が世間一般の思考とものすごく違っていることに気づいていない場合が多いと思う。理解できないまま、気づかないまま、お互いに「どうして普通にできないんだろう」「なんでこんなに生きにくいんだろう」と思っていたりするのだから。
けれども、理解されにくい自閉症者の世界観が、非自閉症者が大半を占める社会にパラダイムシフトをひき起こしているのは間違いない。スティーブ・ジョブズだけじゃなくて、ビル・ゲイツもたしか自閉症ではないかと言われていたはずだ。
WindowsやiPhoneを使っている人たちが、知らないうちに自閉症の世界に入り込んでいるのだと考えると、なんだか面白いと思う。