こんにちは。
世間はゴールデンウィークらしいけれども、我が家はウィークデイと変わらない。
長女さんは出勤、末っ子は授業があるので登校、息子は福祉サービスで外出、亭主は書斎で仕事。
私は朝の不調をやり過ごして、10時半ごろに朝食を取り処方薬を飲んだ。
熱い紅茶で元気が出たので、携帯やiPadで少しネットを見たり、ふにゃもらけをしたり。
午後にもう少し頭が動くようになったら、読書の予定。
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古い友人が本を出版し、数日前に私の手元に送ってくれた。
手に取って書名を見ただけで、思いがこみあげ、涙が流れた。
「小春のあしあと 日本と中国の間に生まれた子の不器用なの旅路」(長江春子 著)
三十数年前、彼女にはじめて会った時のことは、いまも鮮明に覚えている。
アルバイト先の「教室」で、私が勉強を見る生徒として席についていた数名の少女たちは、それぞれに個性的で難しい人生の課題を与えられているように感じられたけれども、彼女のそれは、私の視線を吸い込んで離さないほど、桁違いに深いように思われた。同時に説明のつかない、奇妙なシンパシーをも感じたのを覚えている。
当時大学院の学生だった私は、自分の抱える原因不明のやっかいな生きづらさと格闘しながら、学業とバイトに奔走していた。対人スキルがなさすぎて、どこに行っても居心地が悪い、居場所がないと感じていた私にとって、研究の場は自分の思うことを臆することなく表明できる「息ができる場所」だった。また、中高生に教える予備校などのアルバイトは、「先生」「講師」という自分の枠が確定しているために、比較的立ち回りやすい場でもあった。
生きにくさの理由については、この年になってASD傾向、ADHD、Giftedなどの診断がついたことで、一応の答えが出たわけだけれども、当時はそんなことを知るよしもなく、私の「変」さやダメさをものともせずに付き合ってくれる数少ない友人(亭主を含む)とだけ交流し、支えられ、ともすれば支離滅裂になりがちな日常を送っていた。自分としては大袈裟でなく生きているだけで大変だった。
そんな私が、アルバイト先の一つで出会い、説明のつかないシンパシーを感じた彼女に、自分が何かできることは無いだろうかと思ったのは自然な成り行きだったと思う。
総じて学校が好きではなかった私にとって、最もキツかったのは、高校時代だった。協調性に欠け、どこかが「変」な私は、ある種の生徒たち(向上の努力をマウンティングで代用することをためらわない人々)にとって、手頃ないじめのターゲットだった。
そのころの私に味方は一人もいなかったけれども、もしいたとしたら、一度でいいからかけて欲しい言葉があった。その言葉を、私はことあるごとに彼女に伝えていたらしい。
三十数年を経て、彼女の著書のなかで自分の言葉に再会すると同時に、若くて未熟でダメダメだったかつての自分とも再会した。
生きづらさを抱えてズタボロだった二十代の私と、新型コロナ後遺症でヨレヨレの今の私は、ダメさ加減ではまったく大差がない。
だから、同じような出会いがあるなら、いまも昔と同じことを言うだろうと思う。
マイノリティであることは、自分の欠点ではないし、人に責められるべき欠陥などでは絶対にない。大多数の圧を受けながら生きることは、半端ない試練ではあるけれども、あきらめなければ必ず居場所は見つかるし、孤独が永遠に続くこともない。
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雨足がずいぶん強くなっているようだ。
ベランダの手すりを叩きつける雨音が、寝ている部屋にも響いてくる。
本の続きをゆっくり読もう。
いずれもっと本が読めるようになったら、また古典や歴史の勉強も再開したい。
歴史おんちの私が、時折近代史にこだわって記事を書いたりするのは、頭の片隅に常に友人の生い立ちのことがあったからだ。20世紀に「何」があったのかをろくに知らなかったことを、ずっと恥じていたから。