こんばんは。
kindleアプリ
iPadとiPhoneのkindleアプリに、いつのまにか「読書目標」機能みたいなのが付いていた。
今年に入って、私は207冊のkindle本を読了したらしい。昨年は、293冊だったとのこと。
紙の本や小説サイトの作品も入れれば、だいたい年間400から500冊ほど読んでいると思う。
マンガ本の再読などもカウントすれば、四桁になるかもしれないけど、めんどくさいから数えない。というか、正確な冊数を知るのが怖い。
読んだ冊数が千冊を超えた年に、網膜剥離をやらかして、恐ろしいレーザー治療を受けたことがある。それ以来、年間千冊以上は危険ダメ絶対、ということにして、一応、自粛している。それに、大半がkindle読み放題のラノベや漫画だから、それほど長く目を酷使しているわけでもない(ということにしておく)。
でも、こうして「読書目標」なんてものを搭載されてしまうと、ついもっと読んでやろうかと思ってしまう。一応、年間目標を500冊数にしておいた。突破目標ではなくて、上限である。「感想を書かなければ次の本を読まない」という縛りも、念のためにかけておこう。
この読書目標機能、kindle本体では見当たらない。
今日の健康観察日記
めまいはあいかわらず。
そして、なかなか歩けずにいる。
ゼロの日がないだけ、マシではある。
体調をみながら、少しづつ増やそう。
文法上の「受け」「攻め」
「私はインフルエンザウィルスにやられた」
日本語のこうい受け身文を、動詞を変えずに受け身ではない文に書き換えるのって、どうするのだろう。
×「インフルエンザウィルスは、私をやった」
これはおかしい。
「インフルエンザにやられた」に出てくる動詞「やる」は、「攻撃する、危害を加える、冒す」という意味だと思う。
で、状況的に「インフルエンザ」が「攻め」側であり、「私(発話者)」が「受け」側ではあるけど、「インフルエンザ」は自らの意志を持って攻撃したり危害を加えたりすることのできる存在ではない。
ウィルスのように、「攻め」キャラとは言えないものが、能動文の主語に置かれてしまうと、おかしな感じになってしまう、ということなのだろうか。
試みに、「やる」を「冒す」に変えてみる。
◯「私はインフルエンザに冒された」
△「インフルエンザは私を冒した」
ダメではないけど、これを自然な文として受け止めるには、インフルエンザが主役の大スペクタクル映画みたいな、だいぶ特殊な文脈が必要な気がする。
「2099年10月に某国で発生が確認された新型インフルエンザは、翌月には地球のほぼ全域に蔓延したものの、症状がきわめて軽いばかりか、免疫系に働きかけて一部の難病を治癒させるという奇跡のような効果をもたらしたため、『気のいいウィルス』『人類のトモダチ』などと言われ、いつしか発生地の某国で生まれた古典的ゲームのキャラクターにちなんで『ドクターマリオ』という愛称までつけられて、世界中の人々に親しまれるところとなった。
けれども『ドクターマリオ』は、その後なんの前ぶれもなく悪役に変異する。
2100年4月、のちにダークヒーロー『ワリオ』と呼ばれることになるインフルエンザウィルスは、私を冒し、死の淵へつき落とそうとした。」
「インフルエンザウィルス」のように不完全な「攻め」であっても、壮大な物語の主役としてのプロフィールを背負わせれば、文法上の「攻め」として堂々と主格に立たてるだけの風格を得るようである。
でも、ここまで「攻め」キャラとして立っていても、
×「インフルエンザウィルスは、私をやった」
これはダメのようだ。
インフルエンザウィルスを、勇猛な「攻め」キャラであるところの、ゴジラに置き換えてみたら、どうだろうか。
◯「私はゴジラにやられた」
?「ゴジラは私をやった」
なんかおかしい。「やる」に漢字をあてて、
△「ゴジラは私を殺った」
とすると、少しはマシになるけども、「殺られた」はずの「私」はすでに死んでいるはずで、死人がこんな文を語るのはおかしいから、やっぱりおかしい。
だったら、「私」を「大統領」にしてみよう。
◯「大統領はゴジラにやられた」
?「ゴジラは大統領をやった」
まるでゴジラが大統領役で映画に出演したみたいな話になってしまう。
◯「ゴジラは大統領を殺った」
これなら、ゴジラ=俳優説は否定される。文としてもおかしくない。ただし「殺」の表記が可能な書き言葉にかぎる。
文法的に弱い「攻め」であるところの「インフルエンザウィルス」に戻ってみる。
◯「大統領はインフルエンザウィルスにやられた」
×「インフルエンザウィルスは大統領をやった」
△「インフルエンザウィルスは大統領を殺った」
△「インフルエンザウィルスは大統領を冒した」
△をつけた「殺った」「冒した」の例文は、ウィルスが「攻め」キャラとして強固に立っている物語文脈(なおかつ文章語)であれば、問題ないと思うけれど、日常的な会話の中では、やはり、かなり浮くと思う。
くだくだしく考えてみたけど、なんかこの、
「やられた」
という受け身の表現そのものが、ちょっと特殊なんじゃないかという気がしてきた。
そこのところは棚上げして、ちょっと違う方向から考えてみる。
人類は、インフルエンザウィルスよりも曖昧な、そもそも行動の主体となることが不可能なものに「やられる」こともある。
「腰をやられた」
ギックリ腰になったときの決まり文句だけど、
「腰をやった」
とも言える。
どちらの場合も、状況的には「受け」は「腰」である。
そして、「やった」のも「やられた」のも、その腰を自分の身体の一部とする本人である。
けれどもその本人は、腰を攻撃した(やった)真犯人ではない。
「腰をやられた」という受け身文においては、どうやら「攻め」が不在のようである。
「俺は酒の飲み過ぎで肝臓をやられた」
「俺は酒の飲み過ぎで肝臓をやった」
肝臓を壊した真犯人は「酒」および「酒を飲みすぎた俺」だろう。
しかし「酒」は、「酒の飲み過ぎで」という理由説明が文中に存在する限り、「受け」の「肝臓」に対する文法的な「攻め」として構文内に出現することが難しいし、「俺」のほうも、「肝臓をやられた」被害者としての立場が邪魔して、文法的に「攻め」として立つことが難しい。
×「俺は酒の飲み過ぎで肝臓を酒にやられた」
×「俺は酒の飲み過ぎた俺によって、肝臓をやられた」
文法的非文ではないのかもしれないけど、ダメな文である。
△「俺は酒に肝臓をやられた」
こちらは上の二文よりはマシな気がするけど、
「俺は酒で肝臓をやられた」
こっちのほうが自然に思える。
「酒」もまた、文法的「攻め」として立つには弱い存在のようだ。
もうちょっと脱線してみる。
「飲み過ぎで肝臓を壊した」
上の二つの文と状況は同じだけど、この「壊す」は受け身の形をとりにくいように思う。
「飲み過ぎで肝臓を壊された」
こう言われると、受け身ではなく尊敬の文として背後の状況を想像したくなってくる。
「国王は魔王の侵攻によるストレスから次第に酒量を増やされ、ついには肝臓を壊されたそうです」
ストレス源の「魔王」は「国王」を攻めてはいるけれども、「魔王」が「肝臓」を攻撃して壊したわけではないから、「肝臓」が壊れたことを述べるのなかで、「魔王」は「肝臓」に対する文法的「攻め」として立つことはできない。
だんだん、わけがわからなくなってきたけど、文法的な「攻め」には、純然たる「攻め」から、半端な「攻め」、ほぼ不在の「攻め」など、いろいろなタイプがあるらしいことは、なんとなくわかった。
眠くなったので、寝る。