一昨日の夜の音読で末っ子に読んでもらって、爆笑して寝た本。
宮沢章夫「百年目の青空」(マガジンハウス)
エッセイ集。
たぶん、読んでもらう順番が秀逸だったんだと思う。
最初は、「くしゃみの問題とその対策」という文章だった。
人は、あまりに「くしゃみ」のことを知らなすぎるのではないだろうか。
と始まるこの文章は、衝撃的な事件を報告する。
たとえばある知人の場合はすごかった。お盆にいくつか湯飲みをのせ、これから客に出そうとしたときだ。何かの拍子に「くしゃみ」をしてしまった。「くしゃみ」の反動で、お盆の上の湯飲みが数十センチ空中に浮かんだのを私は見たのだ。
「湯飲みを空中に浮かばせる力」
もちろん、超能力といった種類の力が働いているのではない。それはただの、「くしゃみ」だった。「ただの、くしゃみ」だからこそ、私は驚いたのだ。
想像を絶するようなエネルギーがそこに出現した。
(宮沢章夫「百年目の青空」くしゃみの問題とその対策)
(引用文中は読みやすいように行間を開けるなど改変している)
数十センチ空中に浮かんだ湯飲みが、その後どうなったのかを、この文章は報告しない。
どうなったんだろうか。
液体の入った複数の湯飲みが垂直に上昇し、そのまま垂直にお盆に落下して事なきを得たのだとしたら、それは一種の奇跡である。そんな奇跡はまず起こらないから、十中八九、大惨事となったはずだ。
なのに、想定される大惨事について著者はきっぱりと切り捨てて語らず、話は次の出来事に移ってしまう。
あるいは、「くしゃみ」が原因で、ぎっくり腰になってしまったまた別の知人のことを私は知っている。
やはり、お盆に湯飲みをのせて運ぶ途中だったという。そのとき、「くしゃみ」が出た。もちろん、本来なら湯飲みののったお盆が空中に浮かぶはずだったのだが、そのことを知っていたその知人は、お盆を飛ばさぬよう、腕が動かぬようにとそのことに気を使ったのだ。だが、エネルギーがそれで消滅してしまうわけではないことを忘れてはいけない。エネルギーは不変だ。「くしゃみ」のそれが確実に存在するとするなら、それはどこに行ってしまうのだろう。
腰である。
腰に来るのだ。
湯飲み茶碗を空中に舞い上げたほどのエネルギーが腰に集中するとしたらどうだろう。
「がぐぎが」といやな音がした。腰が音を立てたのである。それから知人は、丸一週間、動くことができなくなったという。そう考えてみれば、「一週間分の人の労働力」を奪う力が、「くしゃみ」ひとつに込められているのだということがわかる。
あなどってはいけない。
恐るべき力だ。
(宮沢章夫「百年目の青空」くしゃみの問題とその対策)
ここで一つ、気になることを指摘しておく。
最初に引用した文章では、
お盆の上の湯飲みが数十センチ空中に浮かんだのを私は見たのだ。
とある。つまり、空中浮遊したと書かれているのは湯飲みだけであって、お盆の上昇については触れられていない。
ところが、次の文章では、
もちろん、本来なら湯飲みののったお盆が空中に浮かぶはずだったのだが
とある。お盆が飛ぶのが「本来」だというのならば、最初の事例で湯飲みの飛翔についてのみ語られ、お盆の動向について言及のないのは不自然である。
何か、おかしい。
もしかしたら、
「本来ならお盆にのった湯飲みが空中に浮かぶはずだったのだが」
と書くべきところを、
「本来なら湯飲みののったお盆が空中に浮かぶはずだったのだが」
と書き間違えたのだろうか。
著者の「牛乳の作法」という本では、演劇を志す若い人々への指導として、目に入った注意深く観察して描写報告するという練習課題を設定した話があった。表題作である「牛乳の作法」が、それだったと記憶している。
そのような観察や描写の課題を提案するほどの著者が、湯飲みが盆ごと吹っ飛んだのか、盆を置き去りにして湯飲みだけが吹っ飛んだのかを、見分けられないはずがない。書き間違えの可能性は低いと思われる。
書き間違いでないとするなら、どのような意図で、お盆の動向をこのようにあいまいな形で提示しているのだろう。
初回の事件で、湯飲みは飛んだ。
そして、おそらくはお盆も飛んだ。
しかし初回の「くしゃみ」の引き起こした事件を描写するにあたって、著者は、まずお盆の存在を切り捨て、落下完了後の大惨事も切り捨てた。
なぜだろう。
本当の理由は著者に直接聞かなければ分からないけれども、推測することはできる。
お盆の上の湯飲みが数十センチ空中に浮かんだのを私は見たのだ。
初回の事件の目撃談は、このように、お盆と湯飲みとの距離に焦点が当てられている。
湯飲みたちは、あたかも多段式ロケットのごとくにお盆を中途で切り話し、さらなる高みへと飛翔したのだ。
そのような事象の主役として観察者の視線をまず勝ち取るべきであるのは、湯飲みである。
お盆は所詮役目を終えて早々に切り捨てられる下段のロケットに過ぎないのだから。
けれども誠実で正確な観察者として、著者は、「湯飲みだけでなく、お盆も飛んだ」という真実を完全に切り捨てることはできなかったのだろう。
その誠実さが「本来なら湯飲みののったお盆が空中に浮かぶはずだったのだが」という表現に投影されたのだと私は見る。
だから何だという話だけども。
で、この「くしゃみの問題とその対策」という文章で、末っ子と私は大爆笑した。
「湯飲みどうなったんだ?」
「受け止めたのか?」
「それはないだろう。落とすよ普通」
「うはははははは」
「わはははははは」
書かれなかった大惨事が、笑いの引き金を引いたのだ。
そして、次に末っ子が選んで読んだのは、この文章だった。
知人が腰をだめにした。
(宮沢章夫「百年目の青空」出られないものには入らない)
冒頭の一文で、すでに爆笑するほかはない。
「どんだけ腰悪くしてる知人がいるんだ」
「同じ知人じゃない?」
「むしろ本人かも」
「うはははははは」
「わはははははは」
先を読むにつれて、本人疑惑がじわりと深まる。
昨年の十二月三十一日、つまり大晦日のことだ。何かのはずみで腰に痛みを感じた。はじめはそれほどでもないと思っていたが、少しづつひどくなってゆく。といっても、かつての経験からすれば軽いほうで、本格的な腰痛なら立つことさえままならない。知人の痛みはそれほどでもなかった。この程度ならたいしたことではないとたかをくくっていたのがいけなかったのかもしれない。その翌日、つまり年が明けた元旦の朝だ。眼を覚まして立ち上がろうとしたが、思うように身体が動かないのに気がついたという。下手に動かせば腰に激痛を感じる。
かなりまずいことになっているのではないか。
(宮沢章夫「百年目の青空」出られないものには入らない)
「知人」の体験であるはずなのに、途中一か所「という」という伝聞の形式が出てくるだけで、あとはすべて直接的な経験を語る形式で書かれている。
最初に「知人が腰をだめにした」と断ってあるのだから、腰をだめにしたことについてのエピソードが知人のものであることは明白であり、すべての文に伝聞情報であるという形式を付帯する必要はない。
でも思うのだ。
この知人の話、伝聞情報にしては、やたらと実体験っぽい生々しさに満ちていないだろうかと。
劇作家ならではの文体なんだろうか。よくわからない。
腰痛本人疑惑に決着がつかないまま、お話は著者視点に切り替わる。
その話を聞いた数日後、書店で私は、腰痛に関する書籍を発見した。書名はひどく直接的でる。
『腰痛』
いきなりこうきた。なにかひねりがあってもよさそうじゃないか。しかし、これは日本語版の書名である。もちろん原題は英語だ。
『GOOD NEWS FOR BAD BACKS』
(宮沢章夫「百年目の青空」出られないものには入らない)
続いて、この本の内容が紹介される。
しかし「風呂の入り方」に関するアドバイスは貴重である。浴槽についてこう書かれている。
「出られないものには入らないこと」
(宮沢章夫「百年目の青空」出られないものには入らない)
「出られないものには入らないこと」
思わずこの「腰痛」の本を買おうかと思ったくらい笑った。
Amazonの書籍情報を見たら、中古品が49円で売りに出されているとあったけど、紙の本を安易に増やさないと決めているから思いとどまった。
ちなみに末っ子は、この箇所以降の音読を拒否。私も「セックス再開のときの心得」なんぞを子どもに音読してもらいたいとは思わないから、拒否を了承。
その次に読んでもらったのは、「爆発と死について」という文章。
知人の祖母がある日、ぽつりと、こう口にしたという。
「爆発するのはいやだねえ」
(宮沢章夫「百年目の青空」爆発と死について)
著者の知人の層がどうなっているのか全く知らないけれども、私の頭の中では、この本に出てくる「知人」について、
くしゃみで湯飲みをふっとばし腰痛になって「セックス再開のときの心得」についての詳細なアドバイスの書かれた「腰痛」という本を贈られたかもしれない人
というプロフィールが出来上がってしまっている。
そこに「爆発するかもしれない祖母がいる」という一文が加わったところで、音読終了。
「爆発」については、その後も気になっていたので、今日になってネット検索して少し調べた。
ペースメーカーを体内に埋め込んでいる方が亡くなって、火葬が行われる場合、爆発する場合があるのだという。「知人の祖母」が気にしていたのは、火葬時に体内のペースメーカーが爆発することだったのだ。
私が気になったのは、死後のペースメーカー除去に保険が効くのかどいかということと、除去可能な環境ではないところで亡くなった場合に、どうするのかということだ。
調べたところ、どうやら保険は効かないようだけれども、病院で亡くなった場合は、無料で除去してもらえる場合もあるらしい。
自宅で亡くなったり、病院で除去が行われなかった場合のことは詳しくは分からなかったけれども、火葬場の設備によっては、事前に報告があれば問題なく火葬が行える場合もあるということのようだった。
ふむ。
ところで全くの蛇足なのだけど、この文章を書いている途中で、ウィキペディアの宮沢章夫氏の記事をナナメ読みしていたら、「来歴」のところのおしまいに、「2019年に暴力事件を起こしたことで停職処分を受け、第64回岸田國士戯曲賞の選考を辞退した」とあって、はあ? となった。
劇作家って、停職処分されるような職種だっけと思ったら、そちらではなくて、「早稲田大学文学学術院文化構想学部教授」のほうだったようだ。
俳優を殴っちゃったらしい。
暴力もハラスメントも、ものすごく大嫌いだ。
バイオレンス作品は読んでも、パワハラ的な意味でリアルにバイオレンスな作家の作品は読む気がしない程度には、大嫌いだ。
若いころ、井上ひさし氏の作品が好きでよく読んでいたのだけど、前の奥さんを殴る蹴るしながら書いていた作品だという話を知ってから、どうにも読む気がしないまま、四十年もたってしまったほどである。
でも末っ子に音読してもらって大笑いした宮沢章夫氏の著作が、私は好きだ。
この「好き」と「大嫌い」に折り合いをつけられるほど、私の頭は大人ではない。
だから困った。
なぜ、彼らは、自分より立場の弱い相手を殴ってしまうのだろう。
井上ひさし氏の場合は、義父による虐待と、孤児院時代の凄惨ないじめなど、トラウマ満載の感のある成育歴が、殴る人格の土台になっていたのかもしれないと、いまなら思える。
もしもそうだとすれば、井上ひさし氏に関しては、「殴る」ことは、精神の傷に由来するものであり、難治性の病気に近いようなものであると言えないだろうか。
作家が傷を持つこと、病気であることを理由に作品を否定していたら、この世から文学作品が多く消えていくことになりそうだ。それはこまる。
暴力的な作家の作品を排斥するというのなら、マルキ・ド・サドの小説など発禁だろうし。
(あ、読む予定はとりあえずない。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」だけでお腹いっぱいだ)
暴力は容認できない。
社会的にはもちろん、私の個人的な心情でも容認は不可能だ。
でも、殴る作家の作品だから排斥し、読むのを拒絶するというのは、やはり違うように思う。
私の読みたいものを書いてくれる作家は、そういう、心に深い傷をもっている人であるかもしれないのだから。
折り合いはつけられないけれど、見方を変えることで、自分が作品を拒絶しないようにコントロールできる程度には、私も大人になったということか。
途中からものすごい脱線だったけど、とりあえず今回はここまでとする。