古い曲を聴くと、記憶の遠近感がおかしくなるらしい。
10年前に何をしていたのかを思い出すことができないのに、サザンオールスターズの曲をよく聴いていた学生時代の暮らしのことは、鮮明に思い起こすことができてしまう。
自分が知っているサザンの曲のほとんどが、30年以上前のものだと思うと、めまいがしてくる。いったいいつのまに、そんなに生きていたんだろう。
頭の中身が半端にタイムスリップするものだから、肉体の実年齢とのギャップに混乱するのかもしれない。
こういう感覚も、ボケの前兆だったりするのだろうか。
そういえば、認知症の方々に歌を聴かせると、人生の記憶を取り戻すということをテーマにした、「パーソナル・ソング」という映画を、ずっと見ようと思っていたのに、忘れていた。
残念ながらAmazon プライムビデオ(見放題)のリストにはないので、課金しないと見られない。でも、課金してでも見たいなと思っていたのだ。
脳は不思議だ。
不可逆的な損傷をうけてダメになったと思っていても、奇跡の回復を遂げたり、思いがけない人生の扉を開いたりすることがある。
息子の脳もそうだった。重度の知的障害を持って生まれ、幼児期には言葉の習得自体が困難だろうと言われていたのに、文字の読み書きができるようになってしまった。
私の脳も、発達障害の診断を受けている。
注意欠陥については、20年ほど前から薄々自覚はしていたけれども、自閉症の可能性については全く疑っていなかった。
なにしろ、うちには息子というガチの横綱級自閉症者がいるのだ。私には息子ほどの儀式行動へのこだわりはないし、アスペルガー症候群の人について、よく言われているような、対人面での困難もないし、自分の好きな話題になると辺り構わずマシンガントークをするような属性もない。
なにしろ本物に常に接しているのだから、自分がそれとは違っているという判断に間違いはない……
と思っていたのが自分だけだったという、残念なオチなのだが。(´・ω・`)
たしかに、リアル生活でマシンガントークをすることは滅多にない。むしろ無口なキャラで通しているほどだ。
でもそれは単にマシンガントークの炸裂を許してもらえる場を持たないというだけのことだったと、病院で心理カウンセリングを受けるようになって、初めて自覚した。カウンセリングは既に終了しているけど、受けていたころは、毎回、きっちり1時間の講演でもしているかのように、立て板に水で喋る自分に内心呆れていた。
前回のカウンセリングの後で読んだ本(マンガやラノベから、古典、歴史書、哲学書まで)、出会った事物、考えたことなどと、それまでの人生のエピソードを因果別にソートしつつリンクさせながら、自分の抑うつ状態やパニック発作の原因を自分で探りだし、対処法をまとめ上げて自分で提案し、次回のカウンセリングで経過を報告して検証し、さらなる考察を続ける。
二年間もこれに付き合ってくださったカウンセラーさんは、毎回、ものすごい量のメモを手書きで取っておられたけれど、腱鞘炎にならないのだろうかと、申し訳なく思ったものだ。
なにはともあれ、それまでの人生で、自分についてあれほどトークした経験はなかったし、おそらく今後もないだろう。
カウンセリングはとても役にたった。
自分の言葉を聞き手と共有することは、私にとっては、ある種のマインドフルネスの効果をもたらしたのだと思っている。ブログでは散々書き散らしている私だけれど、肉声に自分の言葉を乗せて、目の前に実在する人とやりとりすることは、自分も生身でこの世界に息づいている存在だと実感させてくれるからだ。それが、私には必要だったのだ。
私には抗うつ剤はあまり効かなかったれけども、ADHD治療薬としてコンサータが処方されてから、重い抑鬱を改善したこともあって、お世話になったカウンセラーさんの転勤を機に、「卒業」することになった。
それ以降は、自己カウンセリングでなんとかしているけれども、なかなかすっきり「完治」とはならないのは、障害特性が環境と摩擦を起こし続けているからだろう。
生きにくいという特性を持って生まれてしまったのだから、まあ仕方がないとも言える。
抑うつは改善したものの、パニック発作関連と思われる症状は、しぶとく続いている。
一番困っているのは、外出すると、高確率でお腹に強い差し込みが来るというやつだ。
「過敏性腸症候群」という診断で、薬も処方されているけど、一進一退というか、効いていないわけじゃないけど、薬では抑えきれないことがあるという感じだ。
差し込みが来るときには、同時に発熱したり、喉が酷く痛くなったりすることもある。
家族の福祉関連の面談で、会合場所に着く直前に、強烈な差し込みが始まると同時に発熱してしまい、面会前に渡された体温計で検温したら37度を軽く超えていた、などということもあった。
あの時はほんとに困ったけど、体温計を回収される前にギリギリで解熱したので、無事に面談することができた。
でも面談中、喉が急激に痛みだし、腹痛も繰り返しフォルテシモをかましてくるので、それを顔に出さないことだけに意識を集中していたために、何を話したのかほとんど記憶していない。
ちなみに面談が終わって外に出た途端、喉の痛みもお腹の差し込みも、急激に和らいだ。帰宅後は一応トイレの住人となったものの、大したこともなく回復した。
外出時の差し込みは、いつもだいたいこんな感じだ。
不思議なことに、教会と絵画教室に出かけても、そこから出るまでの間は、差し込みは起こらない。通院も、ほぼ無事に済む。
でも、その帰りに買い物に寄ると、レジに並ぶころには、差し込みで冷や汗をかいている。買い物で検温することはないけれど、たぶん発熱もしているはずだ。
おかげで買い物がとても嫌いになりつつある。
差し込みの原因は精神的なものなのだろうけど、その原因というか、スイッチとなっているものが、自分でもイマイチ分からない。
買い物以外の、PTAの集まりや、福祉関係の方々との面談などでも、強烈な差し込みに見舞われるわけだから、人に会うストレスが原因かとも思うけれども、それだと教会や絵画教室が平気な理由が分からない。
似たような状況を、それこそ幼少期から抱えている長女さんに相談したら、スーパーでの買い物がストレスになる理由を、
・視覚刺激や聴覚刺激の過剰な空間で、短時間に大量の情報処理(商品の検索や購入判断)を行うから。
と説明されて、なるほどと納得した。
考えてみると、若い頃から買い物はわりと苦手だった。
今みたいにお腹に差し込みが来ることはなかったけど、疲れてしまって、買う予定のものを買わずに帰ることも、ちょくちょくあったと思う。
それなのに自分は買い物が好きなほうだと思っていたのは、必ず本屋か文具屋に立ち寄っていたからだろう。本や文具を眺めていれば、ストレスの大半は相殺される。
たぶん今もそうなんだろうとは思う。ほかの買い物をせずに、純粋に本屋に出かければ、差し込みに襲われることはないのかもしれない。
それをやらないのは、「楽しみのためだけに出かけると、何らかのペナルティがある」という、謎の刷り込みがあるからだ。
その変にストイックな刷り込みの原因には、薄々心当たりがあるけれども話が長くなるから書かない。問題は、その刷り込みをどうしたら除去できるかということだ。
減感作療法的に、本屋に定期的に出かけてみるということも当然考えるのだけど、うちの近隣の大きな書店は、すべてショッピングモール内にあるので、出かけるときの心持ちがスーパーの買い物と変わらなくなってしまう。それで、どうにも気が進まない。
そういえば、コロナ騒ぎが起きる前には、意図的に図書館で本を借りることもしていた。非常事態宣言が解除されてから、図書館は開館していたはずだから、マスク着用と手指の消毒に配慮しつつ、また行ってみてもいいかもしれない。
図書館以外にも、安心して出かけられる場が見つかれば、だいぶ楽になる気がする。
カフェかな。
そういえば若いころは、お気に入りの喫茶店がいくつかあって、街が苦手な自分にとってのセイフティゾーンになっていた気がする。
あんまり混んでなくて、お値段もそんなにしなくて、店内がそれなりに広くて、2時間くらい本読んで座っていても迷惑にならないような店、近隣にないかどうか、探してみようか。
タリーズとかスタバとか、わりと好きだけど、食べ物が高めなのがつらい。
息子の通っていた支援学校の近くにあったガストのモーニングの時間帯など、お値段も店内環境も、かなり理想的だったんだけど、車で片道小一時間かかってしまう。当時は毎朝息子を乗せて走っていたけど、いまの心身の状態で、ガストのモーニングのために往復2時間もドライブするのは、キツすぎる。
まあ、宝探しのつもりで、気長に探索してみよう。
で、結局何が書きたかったんだっけ。(´・ω・`)
まとめようがない長文になってしまったけど、まあいいか。