読んだら書く。見たら書く。
(できるだけ…)
というわけで、昨日観たAmazon プライムビデオの映画についてのメモ日記。
……書いてるうちに日付が変わって、一昨日の日記になった。(´・ω・`)
映画「500ページの夢の束」
劇場公開された頃から、ずっと見たいと思っていた作品。
しばらく前からプライムビデオ(見放題)で見られると知っていたとだけど、いざ見ようとすると今度は勇気が足りなくて、なかなか見られずにいた。
見るのに勇気が必要なのは、自閉症の主人公が、何かを一途に思い込んで、一人っきりで旅に出る物語だという前知識があったから。
しかもその主人公は、首にいくつもストラップをかけて、鞄を複数抱えている。
かつての私自身にものすごく重なるその姿を見ただけで、これはもう、行く先々で、ありえないようなことを次々とやらかすだろうと、想像がついてしまう。それらはきっと、ありえないうよな幸運と抱き合わせでなければ、破滅的な結果になるようなハプニングのはずなのだ。
その予想は、ほぼ的中した。最後の最後まで、手に汗握ってドキドキしっぱなしだった。(T_T)
主人公のウェンディは、知的障害者のためのグループホームらしき施設で、日常生活への支援を受けながら暮らしている。
ウェンディの平日の朝は、ソーシャルワーカーのスコッテイとのルール確認ではじまる。
明確に決められた日課の復唱。
曜日ごとに決められた衣服の復唱。
外出時や就業時に、交通事故や対人トラブルに巻き込まれないために習得した、数多くの「してはならないこと」や「しなくてはならないこと」の復唱。
人に好まれる表情の練習。
人と視線を合わせる練習。
知的な遅れがなくても、そうした細やかな支援は、ウェンディが穏やかに暮らしていく上で必要なものだった。
ウェンディが決まりごとを確認するときは、その場で声に出して復唱する必要があった。
また、イレギュラーな事態に直面したり、新たなルールを獲得しなくてはならないようなときには、声に出すだけではなく、その場でメモ帳に書かなくてはならなかった。
書くことで状況を把握したり、記憶を整理したりということは、重度の知的障害るあるうちの息子(自閉症)にも、ときおり見られる行動だ。息子はメモ帳は持ち歩かないけれど、ときおり指で文字を空書をしていることがある。息子たちのような脳を持つ人たちにとって、書く行為には、何か特別な効果があるかもしれない。
私自身、それほど極端ではないにせよ、書くということや書かれているものに対して強いこだわりがある。なんのノルマもないのに、ひたすら文章を書き続けているのは、ASD(自閉スペクトラム症)の性質に由来する行動かもしれないというのは、自分でも感じている。
社会生活には、うんざりするほど多種多様な決まり事があるけれども、たいていの人は、大人になるまでの間にそれらを習得し、とくに意識しなくても、呼吸をするのと同じように自然にふるまうことができる(らしいけど、私にはまだできない)。
だけどウェンディにとっては、世の中のほとんどの一般的な物事が、即座には理解できない新奇な経験であるため、一つ一つ、対応を学んで習得していく必要がある。
社会の決まり事に対応できない状態のまま世間に出るのは、目と耳を塞いで一人で道を歩くのとおなじくらい、危険で困難なことだ。だから、ウェンディには支援が必要なのだ。
外出するとき、ウェンディの首には、派手な色の三つのストラップがかかっている。
メモ帳。
ペン。
iPod。
これらは、彼女がパニックにならずに外出をするために、絶対に必要な装備だった。
ウェンディは、地元のパン屋さんで、シナボン(シナモンロール)の製造と販売を担当している。
店頭で試食品を配るときには、自然な口調になるように、常に気を配っているし、表情も硬くならないよう、意識して口角をあげるようにしている。
そうやって、「普通」にふるまって働いていれば、ウェンディはとても魅力的で美しい女性だけれど、本来の彼女は表情が極端に乏しく、同僚との雑談どころか、話しかけられてもろくに反応しない、奇妙な存在だった。
ウェンディが職場の同僚たちの声掛けに反応するのは、「スタートレック」関連の話題をふられたときだけだった。「スタートレック」についてのあらゆる些末な知識を問われるたびに、マシンボイスのように感情のない声で答えるウェンディは、職場の青年たちの尊敬と驚愕の対象だったけれども、ウェンディ本人はそういう周囲の反応に、なんの興味もないようだった。
周囲の他人とのコミュニケーションに興味のないウエンディには、友人がいなかった。
ある日(というか映画の冒頭で)、ウェンディは、自分が深く傾倒する「スタートレック」の脚本コンクールが開催されることを知り、応募を決意する。
彼女の脚本の主人公は、ミスター・スポック。
スポックさんは、「スタートレック」をたった一回しか見たことのない私に、感情表現の乏しさと、どこか奇妙なコミュニケーションの様式で、鮮烈な印象を残した人物だ。
さらに、近所にお住いの、スポックさんによくにた方と、うちの息子(横綱級自閉症者)との謎の交流のおかげで、私の脳内では、スポックさんは、
「宇宙における自閉症者の隣人」
という枠に、こっそり分類されている。
↓ことの次第を書いた過去日記はこちら。
それはともかく、ウェンディは、ミスター・スポックが身内や同僚を失うという過酷な体験をすることで、人間の情愛というものを深く理解し、自らの強い感情を拒絶せずに受容できる人間になるという、壮大な物語を生み出した。
他者との関係性や、そこから生まれてくる感情の受容は、ウェンディにとっても困難な課題だったけれども、「スタートレック」全編を精密に鑑賞し、それを踏まえて自力て創造したミスター・スポックの人生を追体験することによって、大きな気づきを得ていた。
ウェンディは彼女自身の内面的な気づきの体験が視聴者にうまく伝わるように、500ページにも及ぶ脚本のなかで、さまざまな工夫を凝らしたのだという。
それは、彼女なりの、周囲の人々や実社会への歩み寄りであり、大切な人に自分の感情を伝えるためのコミュニケーションの方法であったのかもしれない。
恐ろしくコスパの悪いやり方だけれども、ほとんど暴走に近いウェンディの創作のエネルギーは、彼女を取り巻く人々の人生を、やがて、思いがけない形で動かすことになる。
ウェンディは出来上がった原稿を印刷して、ソーシャルワーカーのスコッティ渡し、読んでほしいと伝えた。けれども、スコッティは「スタートレック」の世界をよく知らなかったので、膨大な脚本の冒頭を少し読んだだけで、理解できずに頓挫してしまう。
スコッティはどうやらシングルマザーらしく、一人息子がいるのだけど、母親がソーシャルワーカーの仕事に打ち込んでいる間に学校をサボり、不登校になりかけていた。彼らは、のちにウェンディの失踪騒動に巻き込まれるのだけど、図らずも彼女の書いたスタートレックの脚本によって、心情的な絆を取り戻すことになる。
スコッティから感想を聞くことができなくても、ウェンディは自分のシナリオが優れていることと、コンクールで認められて受賞することを、まったく疑っていなかった。あとは締め切りに間に合うように、投函するだけだった。
ところが、コンクールの締め切り直前に、ウェンディは実の姉であるオードリーと面会することになった。その面会予定は、ウェンディにとって強いストレスを引き起こすものだった。
施設に入る前、ウェンディはオードリーと一緒に暮らしていた。
姉妹の母親が早く亡くなったため、年の離れたオードリーがウェンディを世話していたのだ。
ウェンディには、適応の難しい事態に直面すると、パニック状態になったり、ひどい癇癪を起したりする性質がある。また、他人の気持ちや周囲への配慮を考えずに、口汚く罵ったり、厳しい批判の言葉をぶつけることもある。
オードリーはせいいっぱい妹を守ろうとしていたけれども、自分だけでは手に余ることもあったのだろう。ウェンディの施設入居は、おそらくは、ウェンディとの同居に困難を感じたオードリーと、彼女の夫の意向だったと思われる。
オードリーは自分の都合で同居できない罪悪感からか、妹に会うことを恐れてもいた。
ウェンディのほうも、姉に対して難しい思いを抱いていた。
彼女は、亡き母が残してくれた家での姉との暮らしを好んでいたし、生まれたばかりの姪に会いたいという思いもあった。施設の自室の壁には、姉から送られてくる姪の写真が、丁寧に並べて貼られていた。
姉の一家と同居できない理由を、ウェンディは正しく理解していたので、施設で努力を続けて、パニックや癇癪をコントロールする方法も習得した。
だからウェンディは自分はもう実家に帰れるはずだと思っていたし、面会にきたオードリーにもそう伝えた。
けれどもオードリーは同居を受け入れず、さらには夫の仕事の都合で、母の残した家を売ることにしたとウェンディに伝えた。
オードリーの拒絶の言葉を聞いたウェンディは、完全なパニック状態になってしまう。自閉症の人のパニックには、自分自身と見守る者の肺腑を同時にえぐるような、目に見えない鋭い刃物が含まれている。助けようと手を伸ばしても、生半可な覚悟では、大きな傷を負ってしまう。
そんな見えない刃物で自他を傷つけながら叫んで暴れる妹の姿に、いたたまれなくなったオードリーは、言葉もなく逃げるように施設から出ていった。
スコッティになだめられて、なんとか表面的にはクールダウンできたウェンディだけれども、すぐには平常心を取り戻すことができず、食事もとらずに部屋に引きこもっていた。
夜になって、ようやくコンクールのことを思い出したウェンディは、もはや郵送では締め切りに間に合わないことに気づいて、愕然とする。
ウェンディは恐慌状態になりながらも、締め切りに間に合わせる方法を必死で考えた。その結果、思いついたのは、自分ひとりでコンクールの主催者であるパラマンウトピクチャーズに直接出かけていって脚本を提出するという、ウェンディの生活スキルでは到底不可能な方法だった。
施設には夜間外出禁止のルールがあるため、外に出ることができない。
ウェンディは夜明けまできっちり待って、身支度をしてから施設を出た。
飼い犬のピートが後を追ってきてしまったので、仕方なく連れていくことにしたのだけれども、そのせいで、ウェンディの旅はますます困難で危険で、どうしようもなく混乱したものとなるのだけれど、先のことなどウェンディにもピートにも分からない。
最初の困難は、交通手段だった。
ウェンディは、どうすればハリウッドのパラマウントピクチャーズまで行けるのか、何も知らなかったのだ。
パン屋ほの出勤のときと同じように、路線バスを利用しようと考えたものの、職場行きとロサンゼルス行きでは、路線もバス停も料金も違う。
ウェンディはいつものバス停で路線バスを待ち、運転手にロサンゼルスに行くかどうかを聞いたけれども、どの運転手も、「行かない」と答えるだけだった。
一人だけ親切な運転手がいて、ロサンゼルス行きの長距離バスの運行情報を教えてくれたけれど、そのバスにはあらかじめチケットを買っておかないと乗車できないと知らされる。
買い物でのコミュニケーションが極度に苦手なウェンディにとって、チケットの購入は大いなる試練だったけれども、なんとかクリアして、無事にバスに乗ることができた。バスにはペット禁止のマークが貼り付けてあったけれど、ウェンディはピートをうまくバッグに隠し、ペット禁止のマークを手で覆って、ルール違反することを自分に許した。
ところが、高速道路を走行中に、ピートが吠えてしまったため、ウェンディはバスを下ろされてしまう。
ロサンゼルスまで370キロ。
徒歩での到達は絶望的だけれど、ウェンディには諦めるという選択肢はなかった。
スタートレックのシナリオコンクールに応募することは、どんなルールや恐怖にもまさる優先事項だったのだ。
けれども、そこから先には、さらに過酷なトラブルが待ち受けていた。
たまたま知り合った親子連れに騙されて、所持金の大半と、首からさげていたiPodを盗られた。手帳も奪われかけたけれど、それだけは必死に訴えて返してもらった。
そのあとに立ち寄った店では、ウェンディが障害者であることを察したらしい店員に、商品の金額をごまかされそうになったけれど、様子を見ていた老婦人が不正を指摘して事なきを得る。老婦人には自閉症の孫がいるために、ウェンディの困りごとに気づいたのだ。
その老婦人に勧められて、一緒にロサンゼルスに行くことになったのだけど、乗ったバスの運転手が居眠りで事故を起こし、頭を打ったウェンディは病院に搬送されしまう。
警察を通してウェンディの所在を知ったスコッティ親子とオードリーは、ただちに病院に向かう。でも三人が病院に着いたのは、ウェンディが見事に機知を働かせて、サスペンスドラマの主人公のように看護人の隙をついて逃げ出したあとだった。
そこから先は、ウェンディの素晴らしい行動力と神がかった引きの強さで、いくつもの奇跡が起きる展開となる。
スコッティ親子とオードリーと合流したウェンディは、彼らに見守られながら、締め切り直前にパラマウントピクチャーズにたどり着く。
けれども、パラマウントのスタッフらしき人物に、郵送された脚本以外は受けつけないルールだと言われてしまう。
そこでウェンディは、「私が誰かを知っているか」とスタッフに尋ねる。
スタッフが小馬鹿にしたように「知らない」と答えるや否や、ウェンディは、大量の応募脚本が集められている箱の中に、自分の脚本を素早く混ぜ込んでしまう。ウェンディの名前を知らないスタッフには、彼女の作品を見分けることができない。
こうしてウェンディの脚本は、無事に受理されることとなった。
残念ながら受賞は逃したけれども、ウェンディの渾身の脚本は心ある審査員の目にとまり、これからも書き続けるようにとの激励の手紙が届いた。おそらくウェンディには、稀有な創作の才能があるのだろうけれども、才能だけで彼女がしあわせになることは難しい。
この大冒険によって、ウェンディの暮らす世界は少しだけ広くなり、自分を取り巻く人々とも、穏やかな感情に根ざした関係を結ぶこともできるようになっていく。500ページの脚本がもたらした最も大きな幸せは、ウェンディの心の成長の先に待っているはずである。その先の物語を知りたいけれども、映画はここで終わる。
……だらだらと、感想にもならない要約を書いてしまった。
読む人にとって価値のある文章ではないけど、私自身の備忘録にはなる。これだけ書いておけば、数年後でも、見たことを覚えているだろうと期待。
蛇足
蛇足そのものみたいな記事に、さらに蛇足を付け加えるのもどうかと思うけど、備忘録なのでいいことにする。
自閉症の主人公が旅(放浪・家出)をする物語は、私が知っているだけでも、ほかに四つ存在している。
「レインマン」
「僕と世界の方程式」
「夜中に犬に起こった奇妙な事件」
父親の遺産相続に関する遺言に不満のあった弟が、施設で暮らしている自閉症の兄を強引に連れ出したものの、兄の自閉症的言動に振り回されて、大変な旅することになる。旅の果てに待っていたものは、長く離れていた兄弟の絆の強さと愛情だった。最近、世間でいろいろあるせいで、絆という言葉がすっかり値打ちを下げているけれど、他にかわることばを思いつかないので、工夫もなく使っている。
数学の才能を認められて強化合宿の旅に出た主人公は、さまざまな試練や人々との出会いによって、試験に合格する名声ではなく、心を世界に開く窓を手に入れる。
「フォレスト・ガンプ」は主人公のガンプが自閉症だとは書かれていなかった思うけど、そうではないとは思えないので勝手に入れてある。もうずいぶん前に読んだので、ストーリーの詳細は忘れてしまったけれども、ベトナム戦争の従軍を含むガンプの旅は、とてつもないスケールだった。映画もみたけど小説のほうが面白かった記憶。
この本もずいぶん前に読んだもので、ストーリーの大部分を忘れてまっている。
はっきりと覚えているのは、主人公の食べ物へのこだわりと、徹底した人間嫌いの性格だけだ。
犬の惨殺事件をきっかけに、主人公が旅に出て、不仲な両親の絆を取り戻すのだったと思うけれども・・・・どうなったんだったか。そのうち再読しよう。
山下清の放浪記もあるけれど、まだちゃんと読んだことがない。
私が未鑑賞の作品は、他にもある。
この作品は映画にもなっている。
読もう読もうと思いながら、ずっと読まず(読めずに)にいるのは、たしか映画がもうすぐ世に出るというころで、息子さんが事故で亡くなったということを知ってしまったからだった。ネットを通して伝わってくる、著者のかたの父親としての悲しみの深さは、同じような自閉症の子を持つものとして、とても他人事とは思えず、ただただ苦しかった。いまもタイトルを見ると涙がにじむ。映画のほうを先に見ようかな。
長いだけでしりきれとんぼ。
きりがないので、とにかくこれで書き終えたことにする。