こんばんは。
この記事で、ちょうど600本目になる。
一応病人なので、八割ほどは横になってiPhoneで書いている。よくまあ続いたものだ。
うちの食材の多くは、生協の宅配に頼っているのだけど、さっきネット注文書に書き込みをしていたら、取引中止と表示される商品がいくつかあった。
うどん、パスタ、パルメザンチーズ、かつおのたたき(冷凍)など。
コロナウィルスの影響で、注文に対応できなくなっているとのこと。
蕎麦は普通に注文できた。
スーパーでも、パスタやうどんの棚は空っぽで、蕎麦の棚だけ埋まっている。日本人、自宅で蕎麦をあまり食べなくなっているのか。
幸いうちには蕎麦アレルギーの家族はいない。
在宅人数の多いお昼ごはんに、蕎麦を食べる日が増えそうだ。
(_ _).。o○
コロナウィルス対策のため、息子が通所でお世話になっている介護施設も、午前中のみの利用になると連絡があった。お昼ご飯なしでの帰宅である。
息子は昨日の通所で、その話を聞いていたのだろう。昨晩は、翌日の予定に猛烈にこだわっていた。
「あした、○○(施設名)?」
「そうだよ」
「○○?」
「うん、行くよ」
「○○?」
「そうだよ。いつも通りだよ。朝、出かけるよ」
「あした、あさ、○○?」
「行くよ。朝、9時にバスのお迎えが来るよ」
「くじに、○○?」
「そうだよ」
エンドレスで続くかと思ったけど、数十回繰り返したところで、何か腑に落ちたのか、聞き返すのをやめた。
こういう質問連打のときには、息子には本当に言いたいことや、聞きたいことが、別にあるのじゃないかと想像することがある。質問しつづける息子の顔には余裕がなく、不安を抱えているのが察せられるからである。
また、同じ質問に同じ趣旨の答えを返し続けるのではなく、もっと別の展開になるように、あるいは息子がより豊かな表現をしやすくなるように、対応を工夫すべきかもしれない、とも思う。
思っているのに、息子の質問連打が始まると、どうしてもそれに囚われてしまう。既成の質問と応答の形式から逸脱して、より真意に迫るコミュニケーションを生み出すスキルが、私には欠けている。
そういえば自分はコミュ障だったと、今更ながら実感する。限られた言葉しか使えない息子のほうが、よっぽど豊かに自分の内情を表現している気がする。
困ったもんだ。(´・ω・`)
(_ _).。o○
今日は少し頭痛がするので、あまり本が読めずにいる。
「もうすぐ絶滅する紙の書物について」という、ウンベルト・エーコの対談集の序文を読みかけて、数ページで敗退した。
ちなみに、これは電子本ではなくて、紙の本である。墓石みたいな装丁になっているのは、狙ってそうしたのだろうか。
絶滅するのかな、紙の本。
電子書籍は、電気がなくなると読めないという大弱点がある。電気があってもAmazonのアカウントが消滅すればkindle本は読めなくなる。端末が壊れても読めなくなる。Amazonが倒産したら、どうなるのかは知らない。
紙の本には残ってほしい。
切実に。