湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

聖書と「ぴ」

こんにちは。

 

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「ぴ」の意味用法と作例について

 

 

口語訳聖書を読んでいると、ある状況に同時に直面した人々をまとめて「みんなの者」とする訳語がよく出てくる。日常では使わない表現なので、見るたびに、もにゃっと落ち着かない気持ちになる。

 

文語訳聖書であれば「皆の者」「彼らみな」などととするところだろうけど、口語訳なので「みんなの者」になったのだろう。

 

(ためしに使徒行伝のペンテコステのくだりを読み比べてみたら、「彼らみな」→「みんなの者」となっていた)

 

口語訳だから「皆(みな)」を「みんな」に変換したけれど、イエスの弟子たちを「みんな」でまとめるのは、砕けすぎていると感じて、「みんなの者」としたのだろうか。

 

言葉の意味を変えずに、位相を変更しようとすると、ときどき不自然な言葉を生み出してしまう。

 

その不自然な言葉が、場合によっては口語として生きた言葉になることもあるのだろうけど、「みんなの者」はどうやら聖書の中に置き去りにされているようで、ほかの用例を見聞きしたことがない。なかなか「みんなの者」という表現にしっくりくるような状況がないからだろう。

 

せっかく生み出された言葉が、使い道を見いだされないまま引きこもっているのを見るのは、ちょっとさみしい。

 

「みんなの者」は口語訳聖書に用例があるわけだから、死語とはいえないけれども、汎用性がないために、状況としては絶滅危惧種に近いかもしれない。聖書の訳が見直されれば、一掃されてしまう可能性もある。(まだ新共同訳聖書とか新改訳聖書とかを確認していない。機会があれば見ておこう。)

 

 

というわけで、日常的な言語生活において、なんとか「みんなの者」の出番がないものかと、しばらく前から軽く意識し続けていた。

 

口語訳聖書の中の「みんなの者」の全例を確認していないけれども、印象深い用例は、使徒行伝の次の一文である。

 

みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。

使徒行伝 第2章 12節)

 

ペンテコステで一堂に会して祈っていたイエスの弟子たちの身に、ゴオォォォォォォっという、とんでもない爆音とともに聖霊が訪れて、いきなり多言語話者になってしまったというくだりである。

 

爆音に驚いて集まった野次馬たち(=みんなの者)は、教養のないはずのガリラヤの田舎者たちが、外国語を自在に話す様子をみて度肝をぬかれ、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」と言い合っているのだ。

 

私の印象としては、聖書に出てくる「みんなの者」は、よくわからない状況に巻き込まれてしまった人びとというポジションにある場合が多いように思われる。

 

そういう状況にある集団を見つければ、「みんなの者」の出番があるかもしれない。

 

というわけで、結構長いこと、そういう場面を意識して探していたところ、かなりいい感じにフィットする話を末っ子から聞くことができた。

 

 

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休み時間に、末っ子が教室でぼへーっとしていたら、クラスの女子が、いきなり叫んだのだという。

 

「ぴ! ぴが欲しい! ねえ、みんなも欲しいよね、ぴ!!」

 

強い同調圧力に巻き込まれるようにして、周囲の女子たちも言葉を返した。

 

「え? うん、まあ」

「そうだねー、ほしいよねー」

「だよねー」

 

ひとしきり、「ぴ」獲得への強い思いを共有しあったあと、最初に叫んだ女子がトイレかどこかへ行ってしまった。

 

すると、彼女に同調していた女子たちが、困惑の表情でひそひそと話し合いをはじめたという。

 

「ぴって、何だろう?」

「何だろうね。わかんない」

 

少し離れたところで一連の会話を聞いていた末っ子は、のちほど「ぴ」について調べ、おそらくは「彼ぴっぴ」を省略したものであろうと推測した。ただし、同じ用法での「ぴ」の使用例は確認できなかったとのこと。

 

以上の話をもとに、「みんなの者」の日常的な場面における使用例を作例してみる。

 

 

【作例】

 

彼女は、自分を取り囲むみんなの者に向かって、熱く語った。

 

「ぴが欲しい! みんなも欲しいよね!」

 

彼女がその場を去ったのちに、みんなの者は困惑して、言い合った。

 

「ぴって、何だろうね」