おはようございます。
デヴィッド・リンチ
新型肺炎のせいで、絵画教室がずっとお休みだったため、この1ヶ月ほど、絵の練習をサボっていた。落書きすらしていない。
体力の衰えがひどくて、文章の読み書きすら億劫に思うくらいだから、苦手なお絵かきは、なおのことしんどい。
でも今朝、デヴィッド・リンチの「アート・ライフ」という映画を見ていたら、何か無性に描きたくなった。
この作品は、現在、Amazonプライム・ビデオで見ることができる。
デヴィッド・リンチの他のほとんどの映画は、Amazonではレンタルできないようだ。見たかったのに。
作中では、デヴィッド・リンチが黙々と作品を作るシーンと、幼少期の映像が交互に映し出され、時折、作品が一瞬だけ表示される。それらを背景に、生い立ちや、創作について、本人が訥々と語る声が流れ続ける。
映像のほうを「背景」と感じるのは、本人の語りの内容のほうが、映像よりもはるかに膨大なイメージをこちら側にもたらすからである。
作品を作るときに、それを彩るのは、創作者の過去である、というようなことが、語られた途端、デヴィッド・リンチが板の上で捏ね上げている、薄気味悪い色のネバネバした素材が、徹底的に火葬された遺体がナマの肉塊に戻っていく過程を見ているように思われてくる。エグいのに、目が離せない。一体、あのネバネバには、どんな過去の想念が彩りとして込められてようとしているのかと、目を凝らしてしまうのだ。それは、まるで魔術の顕現のようでもある。
不可能な事物の創出。生成。
創作というものは、元々、そういうものであるのかもしれない。
古事記
古事記の意訳の2回目を、今日こそはちゃんと書こうと思うのだけど、なかなか方針が決まらない。
パフォーマンス系の創作のために、アマテラスについての概要を知りたがっているお友だちのための意訳なのだけど、古事記の記事ときたら、オリジナルときたら、スカトロ・エログロ全開で、そのまま訳したら18禁どころではなく酷いことになる。
糞尿汚穢死骸ナマグサをかき分けて、少しでもアマテラスさんのうつくしいイメージを強調して意訳できないものかと煩悶していて、なかなかまとまらない。
だいたいあの姉弟は、怪しいのである。
弟のスサノオに、姉に対する害意はないことを証明するのに、なんでまた、「二人で子どもを産む」という方法を取らなくてはならないのか。
そりゃ姉弟とはいえ、父親(イザナギ)が、自分一人だけで産んだ子どもたちであるから(それもどうなんだという話だけど)、近親相姦の禁忌には触れないのかもしれないけれども、その後の展開を考えれば、どう考えても不味い方法だったのは間違いない。なにしろ危うく世界が終わるとこだったわけだから。
まあ、ぼちぼち書いてみよう。