湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

スープと腸とそれから

おはようございます。

 

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今日の健康観察日記

 

末っ子が早く登校するというので、今朝は五時半起きて弁当を作った。

 

今朝のスープは、自己流の鶏たまスープ。

玉ねぎとチンゲンサイを、だし汁+醤油+みりんで煮て、小さめにそぎ切りにして片栗粉をまぶした鶏もも肉を加えて、火が通ったら溶き卵を入れて、混ぜて、出来上がり。

 

親子丼をスープにした感じで、子どもたちには人気のメニュー。末っ子のお弁当は、鶏たまスープがたっぷり入ったスープジャーと、おにぎり一個。

 

いつもより四十分ほど早起きした割には、朝の痛みがそれほどでもない。痛くて寝込んでいた一昨日までと比べると、段違いに軽い。

 

洗い物や、洗濯物を干す動作など、いつもなら手指や足腰が痛くて地獄なのに、今朝は、憂鬱な程度で済んだ。

 

抑鬱のレベルを、私は読み書きをしたい意欲の度合いで測っている。今朝は、こうして朝から日記を書こうと思う程度には、脳が元気だ。

 

完全に抑鬱が消えた状態の私であれば、持っているブログ(五つほどある)全部を一日で更新して、その上さらに何か書いている。それを100パーセントの私だとすると、いまはせいぜい15パーセントほどだろうか。

 

腸活は、引き続き頑張っている。

 

手に入る書籍などで、信憑性の高い知識を仕入れつつ、とにかく生活全般を無理なく健康的に改善することを目指すつもりだ。

 

目標は、今年の大晦日に、ひどい痛みや体調不良、抑鬱などを感じることなく、すっかり大掃除を済ませて、自分で作ったおやつなどつまみながら、穏やかな気持ちでここのブログを書いていること。

 

 

読書

 

漱石を読んでいると、特に仕事もせずに親掛りで暮らしている青年というのが、よく出てくる気がする。

 

いま読んでいる「それから」の主人公の代助は、門野という書生を自宅で抱えているけれど、この門野は、書生とは名ばかりで全く勉強などせず、代助の家の家事を手伝うばかりである。

 

代助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌でいっぱいに詰まっているとしか考えられないのである。話をすると、平民の通る大通り(誰にでも分かるような、普通の話題のこと)を半町ぐらいしかついて来ない。たまに横丁へでも曲がると、すぐ迷児(まいご)になってしまう。論理の地盤を竪(たて)に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至ってはなおさら粗末である。あたかも荒縄で組み立てられたるかの感が起こる。代助はこの青年の生活状態を観察して、彼は畢竟なんのために呼吸をあえてして存在するかを怪しむことさえある。それでいて彼は平気でのらくらしている。しかもこののらくらをもって、暗に自分の態度と同一型に属する者のと心得て、なかなか得意にふるまいたがる。

 

夏目漱石「それから」より

 

 

代助は、自分の書生の知的レベルを辛辣に批判しているけれども、まともに仕事を持っていないという点では、代助も書生の門野と変わらない。代助は一代で財を成した父親に生活費を丸抱えしてもらいながら、実家を出て暮らしている。生活の世話は下女と書生がやってくれる。

 

代助の日常は基本的に毎日が休日なので、洋楽のコンサートに行ったり、本を読んだりしながら、自由気ままに、高尚に過ごしている。仕事や家庭がうまくいかずに憔悴している友人を気の毒に思う反面、そういう世俗の苦労を背負うことで、精神の鋭敏さを失う様子を、上から目線で忌避している。

 

こんなハイクラスのニート、いまの日本には滅多にいないだろうけど、明治時代にだって、そんなにたくさんはいなかったんじゃないかと思うが、どうなのか。

 

読んでいると、その無責任な無為っぷりにイライラしてくるものの、それならこういう代助のような人物を、世俗的な生産性の多寡で計って無価値としたいかというと、そういう気にもならない。

 

もう少し先を読んで、また考えよう。

 

 

それから (角川文庫)

それから (角川文庫)