おはようございます。
結構前のラクガキ。
ここに貼ると、画像が必要以上にデカくなる。(´・ω・`)
小さく貼り付ける方法はないものか。
あとで探そう。
起き上がって、飲み物を用意して、椅子に座って飲む。
自分の机の前に移動して、パソコンを立ち上げて、何かをする。
そんな簡単な動作が、億劫でしかたがない。
液体の金属みたいな重くるしい何かがたっぷりと体にまとわりついているような気がする。
マッサージをしてみようと思うのに、まるで百キロのバーベルを持ち上げろと言われてるのと同じくらいの無理さを感じてしまう。
こんなんじゃどうしようもないので、とにかく動く。
耳の下あたりに手を持っていって、そこの皮膚をつまみあげる。
痛い。それに、固い。
先日、せっせとマッサージしていたときには、ふわふわに柔らかくなって、血行もよかったのに、サボるとすぐ元にもどるらしい。
引用
しんどい体調について日記に書いたら、とにかく手元にある本からテキストを引用して気分を変える。
自分のしんどい体調のことばかり考えていると、世界がよけいしんどく感じて、自分にうんざりするから。
今朝は、椅子のわきにあったこの本。
イギリスの民族服はじみだが落ち着いた美しさがある。
新版世界史モノ事典
地味?
スコットランドのキルトとか、地味だと思ったことがないので、意表をつかれた気がする。
生地の色合いは地味なのかもしれないけれど、女性がかぶっている、独特の円筒形の帽子など、地味とはとても思えない。ハデな形状だ。
なんてことを調べたり書いたりしながら、首回りのマッサージをしていたら、ちょっと元気回復。脳に十分な血液が通っていなかったのかもしれない。
読んで書けば、私は元気になる。
iPhoneのフリック入力よりも、やっぱりキーボードで書くのが楽しい。
しんどくても、横になってばかりいるのはやめよう。
フレディ・マーキュリーとジーザズ・クライスト
映画「ボヘミアンラプソディ」で、フレディ・マーキュリーが、自分の人生の意味は、パフォーマーであることで、そのために自分は生まれたのだと語るシーンがある。
人びとの望むものを与えるのだとも、最高の天国を見せるためだとも語る。
エイズであることを、仲間に告白したあとの会話だ。
パフォーマーが、フレディ・マーキュリーの言うような存在なのだとしたら、それはほとんどイエス・キリストみたいなものじゃないのかと、映画を見ながら少し思った。
二度目の視聴では、フレディの孤独や、死を前にしての深い苦悩が、新約聖書に伝えられる、イエスのゲツセマネの祈りのシーンに重なって見えてしかたがなかった。
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
(マタイによる福音書 26章 38-39節)
謎が多いといわれる「ボヘミアンラプソディ」の歌詞を、あらためて読んでみると、逃れようもなく運命づけられた死のイメージの強烈なことに、いまさらながら震撼する。
彼の命を、この恐ろしく醜悪な(monstrosity)ものから救ってやれよ。
アラーの神(bismillah)の名に誓って、我々はお前を逃がさない。
蠅の王が、僕のために、悪魔を一体用意してるんだ……
聖書もそうだけれど、時代を超えて人の心を打つような誰かの人生や、創作物というのは、死に極限まで詰め寄って自分の命を確かめるような過程を持っているように思う。
イエスは十字架につけられてから三日後に蘇ったそうだけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」はフレディの死後、再びヒットチャート一位になり、映画になってまた大ヒットした。テキストや、楽曲や、映像は、時代を超えて、何度でも蘇る。それを求める人々さえいれば。