湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

iPhone引き継ぎしてビューティフルマインドを見終わった日記

おはようございます。

 

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iPhone代替機の設定がほぼ終わって、ジョジョピタパタやふにゃもらけなど、毎日遊んでいるゲームアプリ類も、無事引き継げた。

 

あとは、古いiPhoneを初期化して、送り返すだけ。

1週間以内に返送しないと、遅延料金8万円かかってしまう。今日中に頑張ろう。

 

それにしても、昨日は地震が多かった。

震源は、栃木と茨城が交互だったみたいだけど、なんなんだろうか。デカイやつの余震じゃなければいいんだけど。

 

 

映画「ビューティフルマインド」

 

ビューティフル・マインド (字幕版)

ビューティフル・マインド (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

外国映画は基本的に字幕版を見ることにしている。

俳優さんの声をちゃんと聞きたいのだ。

 

英語のヒアリングは苦手だけど、字幕があれば、日本語を頼りにしながら、半分くらいは聞き取れる。そうやって同じ映画を何度も見ていると、多少言葉を覚えられるので、ちょっと楽しい。もっとも覚えたところで使い道はない。

 

あ、いつか字幕なしで映画を見られるようになることを、一応目標にしてみようか。

 

昨日覚えた「Have a nice night,asshole!」は、日本語に訳したら

 

「ステキな夜を過ごしなさい、ケツの穴!」

 

ということになるのだろうか。

 

……ケツの穴といえば、大方は肛門のことだろうけど、なぜ肛門が、女性が男性に向けて叫ぶ罵詈雑言となり得るのだろう。

 

日本語だと、この手の侮辱用語は、臓器ではなく排泄物の名称を当てるように思う。

 

ジョジョの奇妙な冒険」の、たしか第3部だったと思うけど、敵方のスタンド使いで、なにかと言うと、

 

「このビチクソがぁ!!」

 

と罵る美女がいたけど、あれもよくわからなかった。なぜ、普通の便ではなくて、水分過多の軟便をチョイスするのか。便のランクとしては、普通の便より軟便の方が不健康という意味で格下だからだろうか。

 

話がそれた。

 

映画「ビューティフルマインド」、見終わった。

 

主人公の数学者、ジョン・ナッシュが、国の諜報機関に暗号の解読を依頼されたことから、敵国のスパイに命を狙われるようになり、銃撃戦にまで巻き込まれてしまい、精神的に衰弱して結婚生活に行き詰まる……というあたりまで、それが彼の統合失調症による幻覚だとは全く思わず、ジョン・ナッシュのリアルだとばかり思って見ていた。

 

大学院時代のルームメイトで、常にナッシュを励まし支えてくれていた、親友のチャールズ。

 

チャールズの死んだ妹の遺児である少女。

 

政府の秘密任を依頼をしてくるパーチャーという冷酷な男。

 

物語の根幹に関わるほどの存在感を持つこの3人が、実在していないことが明らかになったときには、病識が全くなったナッシュや妻のアリシアと同じくらい、私も驚いた。

 

ナッシュは最初、強制入院させられて、身体を拘束さらた状態でインスリンを投与されるという、まるで拷問のような治療を、長期にわたって受けることになる。

 

そうした治療と服薬によって、幻覚は抑えられ、ナッシュは普通の日常を取り戻したものの、治療薬は、数学に取り組むのに必要な脳の働きをも奪ってしまう。

 

そのためナッシュは、妻に隠れて薬の服薬をやめてしまい、またしても強烈な幻覚の世界に取り込まれてしまうことになる。パーチャーの指示によって、国のハイテクな秘密基地が家の裏の倉庫に移転してきてしまうのだ。

 

けれども、この二度目の発病のあと、ナッシュは自分の病状や幻覚を投薬で抑えるのではなく、理性で折り合いをつける方法を選ぶ。

 

非実在親友のチャールズとその姪、架空の諜報員パーチャーは、ナッシュ自身の強烈な自負心や不安、癒しがたい孤独が、それぞれに人格を持ったもののようだった。

 

彼らはナッシュの実人生を散々にかき回し、危うく破滅させるところだったけれども、常に彼に寄り添い、その心の求めるものを与えようともしていたのだ。

 

途方もない脳の問題と格闘しながらも、妻や、実在する友人達に支えられて、ナッシュは教鞭を取り、研究生活を送り続けて、大きな業績を打ち立てて、ノーベル賞を受賞する。受賞式の会場には、最愛の妻と息子のほか、幻覚の3人も佇んで、ナッシュを静かに見守っていた。

 

先日見たホーキング博士の映画「博士と彼女のセオリー」と同じように、高度な数学の理論も、それを生み出した学者の血肉によって生み出されたものだということを、強く感じさせる映画だった。