湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

寝不足からの復活とか古典とか


寝不足のせいで、体調をガックリ落としていたけれど、今日はだいぶ回復している。


昨日は、家事をするのが苦しく、椅子に座っていても15分ももたなかった。

今日は、家事は多少きついものの、なんとか普通にできている。座っている分には、全く問題ない。

ただ、ちょっと目がかすむ。本を読んでいると、歪んだレンズみたいなぼやけが、ぼわーっと流れてきて、大変邪魔くさい。

 

昔から、自分の体調が、よくわからない。とくに、明確な痛みや発熱などを伴わないような、肉体的な「疲れ」を実感することが難しい。というか、できない。


外を歩いていて、冷や汗がダラダラでて、二分に一回立ち止まるような状況になっていても、「体調がおかしい」ことに気づかなかったりする。その結果、やっちゃいけない無理をして、本格的に体を壊したりする。


このブログで体調を記録するようにしているのも、調子の悪さをきちんと自覚するためだった。
今後はできるだけ、サボらずに書くようにしよう。(´・ω・`)

 

( _ _ ).。o○

 


週に何回か、聖書を読むことが、この数年の習慣になっている。

 

読むようになった動機はいろいろとあるけれど、もともと長い歳月を経て、現代でも読まれ続けているようなテキストが好きだから、続いているのだと思う。万葉集などの古典文学が好きな理由にも通じる。

 

古典文学と聖書の違いは、信仰を通して読まれることで、なんらかの意味で「生きているもの」として現代に蘇る性質を持つというところだろうか。私はクリスチャンではないので、そのあたりのことはうまく言えないけれども、古典と聖書の違いを、漠然とそんなふうにとらえている。

 

もちろん、古典文学だって、深く解釈をして鑑賞をすることで、新しい時代の読み手の内部で、あるいは広くシェアされて、同時代的な生命力を得ることはあると思う。けれども、信仰の対象とされてきたものと、芸術とは、重なる部分はあったとしても、どこかで大きく質的に違うように思えてならない。神と美の違い、だろうか。そりゃ違うだろうと思うけど、どう違うのかと言われると、私のような浅薄な人間には答えることができない。でもまあ、読むのである。

 

 

 

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。

人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。

わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

          (ルカによる福音書 9章23-26) 口語訳

 

 

人間は不死ではないので、どこまでも自分の命を救おうと思っても、決してかなうことはない。

 

それでも、自分の命が、何か別もののと天秤にかけられるような局面があれば、人はどうしたって、自分の命を選びたくなるだろう。

 

人を助けて自分が死ぬか、自分を助けて人を死なせるか。

どちらも難しくて、苦しい。そんな試練が自分の人生に訪れないことを全力で祈りたくなるのが、たぶん普通の感覚だろう。

 

三浦綾子の「塩狩峠」の主人公のように、「生」「死」という二択即決を求められて、自ら「死」を選び取れる人もいるのかもしれないけれど、他からそれを求められて、簡単にできることではない。すべてわかって十字架についたはずのイエス・キリストご自身だって、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、祈ったというのだから(マタイによる福音書 26章3節9 ゲッセマネの祈り)。

 

でも、即決の「死」ではなく、もっと緩慢に、人生の多くの時間とエネルギーとを、自分以外のもののために失う人は、いくらでもいるかもしれない。

 

というか、よく考えたら、ほとんどの人生は、自分の命を守るという目的とは違うことに、無自覚に費やされていないだろうか。

 

過労や不摂生の蓄積、労災や事故や戦争やその他もろもろの他殺によって命を落とすというのは、自分の命を守ることをしなかった(できなかった)結果、むなしく自分を失ったということだとも思える……と、自分で書いていて、耳が(目が)痛くなる。私自身、無自覚の不摂生を続けた結果、体を壊しているわけだから。

 

長い間、意識の上ではすこしも大切にしてこなかったものを、土壇場になって、半ば本能的に惜しむというのも、見苦しいことではあるかもしれない。殉じる、などという大きなことは、まずその失う予定のものの価値を知っていて大切にしてきた人にこそ、行使する権利があることかもしれない。

 

引用した聖書の箇所は、イエス・キリスト使徒たちに伝えたもので、信仰に殉じることも厭わないような厳しい覚悟を求めるものでもある。使徒たちの多くは殉教したけれど、キリストに愛された命だったのだから、自分たちの命の価値、健やかであることのありがたさに対して、決して無自覚ではなかったはずだ。価値のないごみのように自分の命を捨てることと、殉教とは、全く違うものだと思う。

 

福音書のイエスのことばは、信仰のための殉教の勧めではなく、まず自分の人生と命を愛して大切に思うようにと、伝えているように、私には思える。違うかもしれないけど。