中国のSF小説アンソロジー「折りたたみ北京」が、面白すぎる。ということは、もうどこかに書いただろうか…と思って読み返してみたら、数日前に書いていた。
「折りたたみ北京」はKindle版も出ているのに、本屋さんで立ち読みして惚れ込んだせいで、紙の本を買ってしまった。目の弱い私は、夜間に紙の本を読むことが難しい。しかもこの本、紙が黄色っぽいのだ。それがまた味わい深いのだけど、弱視には厳しい配色だ。しかたがないから、ゆっくりと読む。それもたまにはいいと思う。
序文から少し引用。
中国SFの話題が持ち上がるといつも、英語圏の読者は、「中国SFは、英語で書かれたSFとどう違うの?」と訊ねます。
たいていの場合、その質問は曖昧ですね……それに気の利いた回答はありません、と答えて、私は質問者を失望させてしまいます。文化に----とりわけ、現代中国文化のように流動的で、激変している文化に----結びつけた大雑把な文学上の分類は、当該文化の複雑さや矛盾をすべてひっくるめて矮小化したものになってしまいます。適切な回答を提供しようとすれば、まったく無価値な、あるいは既存の偏見を再確認するステレオタイプな見方である大雑把な一般化にしかなりません。
そもそも、"英語で書かれたSF"というのが、比較対象に役立つカテゴリーだと、私は思っていません(シンガポールで書かれたフィクション、あるいは英語や米国のものは、みなそれぞれとても異なっており、そのような地理上の境界の内部で、また、境界を越えて、さらなる区分けがあり)、そのため、"中国SF"をどんな基準で区別しなければならないのかすらわたしにはわかりません。
ケン・リウ(KEN LIU)編 「折りたたみ北京」の序文「中国の夢」より
なんだかこれ、いま読んでいる水村美苗「日本語が亡びるとき」に繋がる話だ。
英語が〈普遍語〉であるいまの時代の英語圏の人にとっては、SF小説というものは、通常「英語で書かれたもの」なのだろう。
つい先日、日本語とモンゴル語の遠さに驚いたばかりだけど、文学作品の世界では、中国語と日本語だって、この「折りたたみ北京」のように、間に英訳を挟んで、やっとつながるほどの遠さだ。
あれ?
村上春樹の「1Q84」って、英訳されてるようだけど、あれはSFのくくりには入らないのだろうか。高速道路の途中でタクシーを降りたら、元の世界にそっくりだけど、空に月が二つある、別の世界だったというのは、科学小説的ではないだろうけども。
そういえば、最近の日本(語で書かれた)のSF小説というものを、あんまり読んでいない。
自分の中で大雑把にSFの棚に入れているもので、途中までしか、あるいは拾い読みでしか読んでいないものも含めて、思い出せるものを書き留めると…
石井遊佳「百年泥」(芥川賞受賞作だけど、インド人セレブが翼つけて空飛んでる近未来な世界だし)
佐藤大輔「凶鳥 フッケンバイン ヒトラー最終指令」(末期のナチス・ドイツとゾンビのお話…)
馬場翁「蜘蛛ですが、何か」(コミック版を数冊読んでから、ネットで原作をラストのほうまで拾い読み。日本の高校でクラスまるごと事故死した生徒たちが異世界に生まれ変わる物語…)
カルロ・ゼン「幼女戦記」(ネットで原作小説を読んだ。連載中のコミック版を愛読。あ、今月10巻が出るのか)
香月美夜「本好きの下克上」(ネットとKindle版でぐいぐい読んでいたけど、完結したと聞いてから読むのを停止中…)
他にも何か読んだような……忘れてるなあ。(´・ω・`)